| リズ・カーライル[著]三木直子[訳] 2,700円+税 四六判上製 372頁 2016年1月刊行 ISBN978-4-8067-1507-8 大規模単一栽培農業と決別した有機農家たちが選んだ道は――レンズ豆。 農薬・除草剤の利用や作付けで与えられる国の補助金に依存し、超保守的な風土の中で農業が行われるモンタナ州。 大量の化学薬品に支えられた大規模農業は、土壌と農家を疲弊させていた。畑を生き返らせたのは、小さなレンズ豆だった。 化学薬品と国家に頼る工業型の現代農業に異を唱える農家が立ち上げた販売商社「タイムレス・シーズ」を中心に、 土壌を癒し、自立した農家を守り、米国に食べ物の革命を起こしたユニークな農民たちの闘いを描く。 日本の農業改革と直結する、フードシステムを見つめなおすノンフィクション。 |
リズ・カーライル(Liz Carlisle)
©Su Evers
モンタナ州ミズーラ生まれ。
米国有機農業研究の中心、カリフォルニア州立大学のバークレー校「多様性農業システムセンター」の研究員。
地理学の博士号を同校で取得したほか、ハーヴァード大学の学士号も持つ。
カントリーミュージックの歌手として全米を巡業し、またモンタナ州の有機農家でもあるアメリカ上院議員ジョン・テスターの立法補佐官を務めた経験がある。
三木直子(みき・なおこ)
東京生まれ。国際基督教大学教養学部語学科卒業。
外資系広告代理店のテレビコマーシャル・プロデューサーを経て、1997 年に独立。
海外のアーティストと日本の企業を結ぶコーディネーターとして活躍するかたわら、
テレビ番組の企画、 クリエイターのためのワークショップやスピリチュアル・ワークショップなどを手掛ける。
訳書に
『[魂からの癒し]チャクラ・ヒーリング』(ナチュラル・スピリット)、
『 マリファナはなぜ非合法なのか?』
『コケの自然誌』
『ミクロの森』
『斧・熊・ロッキー山脈』
『犬と人の生物学』
『ネコ学入門』
『柑橘類と文明』
(以上、築地書館)、
『 アクティブ・ホープ』(春秋社)、
『ココナッツオイル健康法』(WAVE 出版)、
他多数。
はじめに
プロローグ
T 肥沃な大地
第1章 帰郷
第2章 穀物への抵抗
茶色の黄金
有終の美
自分でやるしかない
緑肥
U 変化の種──平原の新入り作物
第3章 奇跡の植物
マメ科のカウボーイ
良心的な大工
生きるか死ぬかの一大事
栽培農家たち
第4章 しっかりと根を下ろして
ガラクタ置き場の哲学者
草の根のパワー
政治的なルーツ
法律、教育、協調
第5章 隠密調査と農民科学
自分の目で確かめる
試行錯誤の連続
マメ科アノニマス
ローン・レンジャーとドリトル先生
農家を食べさせているのは誰?
V タイムレス、大人になる
第6章 食べられる種
レンズ豆の共同集積所
フェア・エクスチェンジ
第7章 136トンのレンズ豆
不承不承の起業
儲かる商品
在庫を抱えて
第8章 キャビア入りの飼料──ブラック・ベルーガの台頭
変わり種
レンズ豆、脚光を浴びる
W 革命の機は熟した──運動の本格化
第9章 宗旨替え
土に食べさせる
農場が元気になった
体制を揺るがす
いつか来た道
モンタナ流ミルパ
第10章 セントラル・モンタナの有名人
農場の更生
フォートベントンの風来坊
「クスリは完全にはやめられない」
数字が物を言う
第11章 博士号と小さな秘密
片道400キロの通勤路
粉末の亜麻とエンドウの加工
リスクの共有
創造的な投資
「農業は禁じられたビジネス」
ルンペルシュティルツキン問題
レンズ豆探偵
カバークロップの対費用効果
自然任せのエコシステム
「農業は立派な職業」
銀行と哲学者
農民のための大学院
第12章 レンズ豆の福音
ブラック・ベルーガと聖書の物語
根圏に問題あり
「近所の人にも買える値段」
第13章 ミツバチと官僚制度──送粉者に関する講習会での政治的駆け引き
不耕起栽培の代償
第14章 雑草からホワイトハウスへ
「声を上げなきゃいけない」
大きな白いコンバイン
「アメリカは文明国じゃない」
医療保険と農業
厄介の種
我々は環境の一部である
「政府とは張り合えない」
X 収穫
第15章 正念場
第16章 次の世代
「ほとんど野生の土地」
第17章 過去、そして未来
生まれつきオーガニック
地球の豊かさのすべて
地球に優しい経歴
「一人じゃできない」
地元を超えて
エピローグ
用語集
情報源について
参考文献
訳者あとがき
多くのアメリカ人同様、私は自然農法を提唱した福岡正信先生の著作から影響を受けてきました。先生の農法は日本の気候、風土にしか当てはまらなくても、その土地土地に寄り添って生きる、という先生の思想は普遍的なものです。本書で描いた私の故郷モンタナの百姓たちは、福岡先生の思想に似た哲学のもとで百姓仕事を続けてきたのです。その哲学とは、この大地で地域の仲間と協働して暮らす経験から知恵を引き出して生きていくという考え方です。
この米国の百姓の知恵を日本の読者の皆様とわかちあい、ともに、より健康な大地のために働けることを願っています。
2008年の3月、マサチューセッツ州サマーヴィルで一番安いガソリンスタンドで、私は愛車のスバルを満タンにした。
1ガロン〔訳注:1ガロンは約4リットル〕が3ドル28セント。それまで、たとえ夏の真っ盛りでも無鉛レギュラーにこんなに払ったことはなかったけれど、
町じゅうの看板を見て回った結果、これが最安値だったのだ。給油ポンプのノズルがカチッと音を立てて止まり、私は合計金額も見ずに、
グラブコンパートメントの中の封筒にレシートを押しこんだ。こんな値段はとても払えない。そしてガソリンの値段は下がる気配がなかった。
カントリー歌手になって4年、私は疲れていた。クタクタだった。初めのうち、リアン・ライムスやトラヴィス・トリットの前座を務めたり、
ナッシュヴィルにあるマルティナ・マクブライドのスタジオでレコーディングしたり、NFLの試合前に国歌を歌ったりするのはワクワクする経験だった。
生まれも育ちもモンタナの私は、カントリー音楽をラジオで聴いて育ち、ロマンチックな農村暮らしの歌詞をきれいなメロディに乗せるのが大好きだった。
大学を卒業したとき、私は新譜がリリースされたばかりで、その夏中のライブの予定も詰まっており、
アメリカの田舎を回ってそういう土地の物語を語れるなんて、こんなに素敵なことは他にない、と思ったものだった。
だが、自分のステーションワゴンを運転し、アメリカ中を何度も東西南北に走り回ったあとの今の私は、厳しい現実を知っていた。私の歌は嘘だったのだ。
ライブの後に話しかけてくる人たちの言うことを聞くうち、私は、アメリカのハートランド〔訳注:大陸・国・州などの中核部。
特に、アメリカ合衆国の中西部地域のこと〕の人たちの暮らしは私が想像していたものとは違うことに気づいた。
農業はすっかり産業化された過酷な仕事であり、農家は、彼らに農薬を売りつける企業と、彼らから穀物を買い取る企業の間で身動きがとれなかった。
残念ながら、じつはアメリカの農家のほとんどは、人が食べるものではなく、大規模な食品加工会社のための原材料を育てているのだった。
こうした多国籍企業は、植え付ける種からそれを育てるための高価な肥料や農薬まで、彼らに作物を提供する農家のすることの何から何までを支配していた。
農家にとって、それは勝ち目のないゲームだった──農作の投入費用が増加し、穀物の価格が下落するにつれて、彼らの借金は膨らんでいった。
だが企業にとってはそれは非常に好都合なやり方で、安いトウモロコシ、大豆、小麦を提供してくれる、彼らの捕虜となった農家に農薬を売りつけ続けた。
潤沢なマーケティング予算を持つ大規模食品会社は懸命に、庶民的な自分たちの製品が、家族経営の農場とその健全な価値観を守っているのだ、
とアメリカの中産階級に信じこませようとしていた。私は、私のライブのスポンサーである企業のことを考え、忍び寄る罪悪感を覚えた。
私は彼らの真っ赤な嘘を鵜呑みにして、さらにそれを拡散していたのである。
私が決まってライブのオープニングに歌う歌には、静かに流れる川の隣できれいな列になって育つトウモロコシのことが出てきた。
ところが実際には、アメリカのトウモロコシ畑からは肥料が流出し、
ミシシッピ川流域はすっかり窒素で汚染されて流域の町の人たちはボトル入りの水を飲んでいるし、
メキシコ湾にはマサチューセッツ州ほどの大きさの低酸素海域がある。しかも、あふれるほどの肥料が農民たちの役に立っているわけでもない。
化石燃料から作られる農薬の数々は、ガソリンの価格が私を押し潰しているように、農家を破産に追いこんでいた。
サマーヴィルのガソリンスタンドを後にした私は、農業、食べ物、アメリカ農村地帯について、そろそろ本当のことを言うべき時だ、と思った。
もしかしたら何か変化を起こす役に立つことだってできるかもしれない。だから2008年の春、私は音楽業界から足を洗った。そしてレンズ豆革命に加わったのだ。
厳密に言えば、2008年6月にジョン・テスター上院議員のところで働き始めたとき、私は自分がレンズ豆革命運動に加担することになるとは知らなかった。
わかっていたのはただ、ジョンが、私の出身州であるモンタナの小さな町でオーガニック農園を営んでいるということだけだった。
彼は、アメリカの農業が抱える問題を解決して、農民が健康的な食料を育てながら快適に生活できるようになるための良案をいくつか持っているように思えた。
そしてその過程で彼は、アメリカの国政を様変わりさせようとしていた。議員を3期務めた現職の共和党議員の議席をジョンが奪ったことで、
上院は民主党がわずかに過半数を超えることとなったのだ──そして角刈りのジョンは、市民派議員のシンボルとなった。
テスターの事務所で、農業および天然資源に関する立法連絡官として働き始めたその週から、
私はテスターに劣らぬ異彩を放つ彼の農業仲間たちからの電話に対応することになった。彼らは、自らの経験を元にした、
しっかりと熟慮された政策を提案して私を驚かせた──それは、あまりにも遠いことすぎて私にとってはとっくの昔にお伽話にすぎなくなっていた、
アメリカに民主主義があった時代のことを想起させた。電話の向こうにいるのはベンジャミン・フランクリンかしら、それともトマス・ジェファーソン?
そうであったとしても不思議はないほど彼らは、国の政治機構を良くするために政策に手を入れ、構想し、議論する、という市民の義務に真剣に取り組んでいた。
彼らの型破りな提案を上院の議題に上げるために私にできることがあるとは思えなかったが、
熱意に満ちた電話の相手がかなりの名案を持っていたことは認めざるを得なかった。もちろん、体制派の人たちのほとんどは、ジョンの仲間はクレイジーだ、
と言った。奇妙な作物に、ごちゃごちゃの畑。「雑草農家だよ」と、ある地元の有力有権者は言った。「あいつら、雑草を育ててやがるんだ」
この人たちが雑草農家なのだとしたら、その中でもすごく景気が良い人たちなんだわ、と私は思った。事務所に電話してくる他の農家と違って、
彼ら有機栽培農家は穀物の値段について苦情を言うわけではなかった──なぜなら彼らは大企業に穀物を売っていなかったし、
穀物以外にもたくさんのものを育てていたからだ。農薬の値段についての苦情も言わなかった。農薬を使わないからだ。
彼らは、自分で自分の肥料を作れる作物を見つけたのだ──レンズ豆である。
私はこうした農家と、彼らが育てる奇跡のレンズ豆に非常に興味をそそられ、私のほうから彼らに電話して、彼らが輪作する全部の作物について質問攻めにした。
だが、興味を持つのも早かったけれど、私はすぐにイライラし始めた。
私はただ、アメリカの農業地帯に起きている危機的状況を解決するためのシンプルな技術的手法を見つけたと思っただけなのに、
私が話をする農家はとりとめのない長話で私を離そうとせず、それが昼休みまでずれこむものだから、
とうとう私は「お話をお聞かせくださってありがとうございました」と丁重に言って電話を切らなければならなかった。
それ以上話を聞くのを諦めかけたとき、彼らのうちの一人が率直にこう言った。
「ワシントンDCの人たちがいつだって手っ取り早い解決策を欲しがってるのは知ってるし、言っとくが、レンズ豆を輪作しても解決にはならないね。
でも、ここを見に来たいって言うなら、いつでも歓迎するよ」。私は不機嫌に電話を切った。
その日も私は残業中だった──オオカミだの、銃規制だの、妊娠中絶だのに関する、山のように溜まったEメールの処理に四苦八苦していたのだ。
レンズ豆の畑を視察しにモンタナになど行かせてもらえるはずがなかった。私は自分の馬鹿げた理想主義に、
埒のあかない話に時間を無駄にしたことに腹が立っていた。
だがその夜、ベッドに横たわって、私はその農家の招待について真剣に考え始めたのだ。彼の言う通り、これは手っ取り早い答えにはならないだろう。
彼らオーガニック農家が何をしようとしているのか、本当に理解するには時間がかかる。私は仕事を辞めてこのプロジェクトに、
フルタイムで、おそらくは何年も没頭しなくてはならないだろう。
環境学、経済学、そして、ラジオから流れるカントリーミュージックから学んだことだけではないアメリカ西部農業地帯の本当の歴史について、
勉強しなければならないことはたくさんあった。それでも、その価値はあるかもしれなかった。
翌日の夜、私は大学院のリサーチを始め、必要な勉強ができて、その後に続けて掘り下げたフィールドワークができるところを探した。
私が求めているような、幅広い分野を網羅する博士課程のあるところを見つけるのは容易ではなかった──ほとんどの学部は学生に、
非常に専門的な研究分野しか提供していなかったのだ。だが、カリフォルニア州立大学バークレー校地理学部の博士課程ならそれができそうだった。
2009年6月、ワシントンDCで13か月働いた後、私はジョン・テスターに、次は彼のモンタナの農場で会おうと約束して別れを告げた。
そして同年8月、最初の学期に登録するため、私は北カリフォルニアに引っ越したのだ。
2011年の夏になる頃には、私の勉強もだいぶ進んだので、思いきってモンタナ州まで出かけて農家の人たちと会うことにした。
私はミズーラに住む両親からステーションワゴンを借り、モンタナ州でも行ったことのない地域に向かった──ロッキー山脈のすぐ東の、乾いた平原地帯だ。
そして、コンラッドという名の静かで小さな町で、私は探していた人を見つけた──デイブ・オイエンである。
デイブは、私がテスターの事務所で働くようになって最初に話をした農家ではなかった。というか、直接彼と話をしたことがあったかどうかも定かではない。
だが、いろいろな人に、誰の影響で有機栽培を始めたのかと尋ねると、その答えは決まってこの、コンラッドの小さな農園に行き着くのだった。
両親から引き継いだこの280エーカー〔訳注:1エーカーは約0.4ヘクタール(約1200坪)〕の農地でデイブがしたことは、本当の意味で過激だった。
1980年代、農業危機たけなわというときに、彼はアメリカで初めてレンズ豆の有機栽培を始めたのである。当時、人々はデイブを変人だと言って嘲笑った。
だが今では十指を超える数の農家が、タイムレス・シーズという彼の小さな会社に作物を納めており、タイムレス・シーズ自慢のレンズ豆は、
ホールフーズマーケット〔訳注:アメリカのスーパーマーケット・チェーン。自然食品、有機食品、輸入食品などの品揃えが豊富で、
比較的高級志向の食料品小売店とされる〕の棚に並び、アメリカ屈指のレストランのメニューに登場するのである。
オイエン家の前に車を停めると、色褪せた格子縞の作業シャツとジーンズを着た、気取らない感じの男性が出迎えてくれた。
眼鏡をかけた目は、大きすぎる野球帽のつばの下に隠れている。帽子は彼の顔を太陽光から守っていたが、同時に頭を実際より小さく見せていた。
ちょっと前屈みで畑を歩く、髪の薄くなったこの農場主は、断固として目立つまいとするかのように、180センチの身の丈を農園のほうに向かって丸めるのだった。
彼は、まるで修理工が流しの修理手順を説明するように、私の質問に、丁寧かつ淡々と答えた。デイブがありきたりな自営農民の役を演じる一方で、
私もまた私の役を演じることにし、まるでそれしか興味がないかのように彼の農園の土壌を検査したりした。電話でデイブに説明した通り、
私はグレートプレーンズ北部の多角的農業経営に関する論文用の調査のためにそこにいることになっていたのだ。
デイブと私はしばらくの間、おざなりの会話を交わし、
私はデイブが作付けしている作物の一覧と彼が土壌改良のために使っているものを律儀にノートに書き留めた。
彼のことや彼が育てているレンズ豆について下調べしていたことは言わなかったし、これが単なる短期的な研究プロジェクトではないことも言わなかった。
それに、私とデイブの間の奇妙な共通点についても触れなかった。私は27歳で、デイブがこの農園に戻ってきたときと同じ年齢であること。
35年前にデイブが通ったのと同じミズーラからの道を通ってここにやってきたこと。そして、デイブと同様に私もまた、
故郷を遠く離れたところから世界を救おうと試みて初めて、変化は足元から始めなければならないと気づいたこと。
私もまたモンタナ州の出身であり、私の「調査車両」が両親の車であることも彼には言わなかった。
だがもちろん、私はここに、実家からの4時間の距離よりもはるかに長い道程を経て辿り着いたのだった。
成人してからというもの私はずっと、詩や政策や奨学金を通して、現代社会が抱える難題を農業で解決する方法を探し求めてきたのだ。
素朴だが奥の深い洞察を込めた歌を歌うナッシュヴィルの歌手たちや、ワシントンDCの政治的指導者、
そしてバークレーの学者や食料問題に関する活動家に至るまで、さまざまな背景を持つ識者たちの意見を聞いてきた──どうしたらこの世界を破壊せずに、
世界中の人の食べ物を賄えるのか? 何年も答えを探し求めた後、この質問に対する重要な回答は、最新設備を備えた研究室でも、
有力者が集まる政策決定の場でも、サンフランシスコやニューヨークで人気の地産地消ブームの中にすら見つからないということが私にはわかっていた。
でもそれがもしかしたら、ここコンラッドで見つかるかもしれないのだ──デイブさえ話す気になってくれたら。
デイブが笑顔になったのはそのときだった。口は動かさず、眉毛を大きく額のほうに吊り上げて目を思い切り見開いたので、
大きな眼鏡のレンズが目でいっぱいになるほどだった。彼は私のナンバープレートの、一番左の数字が4であることに気づいたのだ
──モンタナ州の住民なら誰でも、それがミズーラを指す番号であることを知っている。「ジョセフ・ブラウンとは知り合いだった?」と彼が尋ねた。
私の故郷では伝説的な人物であるジョセフ・イープス・ブラウンというのは宗教学の教授で、モンタナ大学での華々しい、
だが少々謎めいたところのある経歴を残し、2000年に他界していた。彼は二七歳のときに、
ラコタ族の長老ブラック・エルク〔訳注:オグララ・ラコタ族の有名なメディスンマン。1950年没〕を探し求めてアメリカ西部を古いトラックで回った。
彼がついにネブラスカでブラック・エルクを見つけたとき、年老いたメディスンマンはほとんど目が見えなかったが、この若い訪問者を心得顔で迎えた。
「来ると思っていたよ」とブラック・エルクはブラウンに言い、ブラック・エルクの要請によって、
ブラウンは後にこのときの対話を出版することになったのだ〔訳注:『The Sacred Pipe(聖なるパイプ)』。未邦訳〕。
デイブには言わなかったが、私はその本を読んでいた。彼もまたその本を読んだということもわかっていた。
テスターの事務所に勤めていたとき、みんながその名前を口にする農場主に興味をそそられた私はデイブについて調べ始め、
彼がかつてモンタナ大学でジョセフ・ブラウンの学生だったことを知ったのだ。私の記憶が正しければ、
彼はこの農場に戻ってくる直前にブラウンの授業を受けたはずだった。デイブの質問に何と答えようかと頭が考えているうちに、
私の口は勝手に「ええ」と答えていた。「家に入ろう」とデイブが言った。「そのノートも持っておいで」
本書の舞台であるモンタナ州はアメリカ北西部にあり、北はカナダと国境を接している。
北部にはグレイシャー国立公園があり、南のワイオミング州との州境を越えればイエローストーン国立公園がある、豊かな自然に恵まれた美しいところだ。
その農業地帯、かつてはネイティブアメリカンの人々がバッファローを追った平原を、車で走ったことがある。
アメリカの農業のスケールの大きさは、時おり映像や写真で目にすることはあっても、実際にその只中を車で走るとまさに圧倒される。
どこまでも続く一本道。アクセルから1度も足を離さないうちに、満タンだったガソリンが半分になる、それくらい、とにかく広大な農地。
右を見ても左を見ても地平線まで小麦の穂波が続き、巨大な散水機がゆっくりと円を描きながら放水する、その向こうに夕日が沈んでいく。
これほどの広大な土地を相手に人間が農業を営もうと思えば、その手法が産業化され、大型機械や農薬が導入され、
徹底的に人間の管理下に置かれて自然の営みとはかけ離れたものになっていった理由もわからなくはない。その結果、生産効率は上がった。
だが、そこから生まれた問題も数多い。農地の疲弊、遺伝子組み換え作物の侵食、農家をがんじがらめにする経済的なしがらみ。
人間の生活を豊かにするためのものであったはずの農業が、さまざまな意味で人間に負担を強いるようになっていったのだ。
そして、そうした工業化された農業のあり方に反旗を翻した農家たちの「革命」を描いたのが本書である。
革命の主人公であるデイブ・オイエンは、1970年代に大学で宗教と哲学を学び、
ラコタ族の長老ブラック・エルクの言葉を集めた『ブラック・エルクは語る』を座右の書とする。彼にとっては農業は哲学の延長だ。
彼の「盟友」たちもまた、一風変わった人物揃いである。農薬会社が出資する研究費をいわば「チョロマカシ」て極秘で緑肥の研究を続けた育種研究家。
オーガニック農園を営むアメリカ上院議員。牛の群れをフェリーで渡そうとして船を沈没させた、といった数々の逸話を持つ名物農場主。
州都ヘレナでデスクワークの職を持ちながら、自宅から400キロ離れた農場に週末ごとに通う夫婦。
大学で音楽を勉強し、畑でヨガに精を出しオーガニックソープを使う青年。
それぞれ個性たっぷりで、「農業」という言葉から連想するステレオタイプに当てはまらず、まるでオムニバス映画の登場人物を見るようでもある。
そして著者の経歴がこれまた変わっている。大学を出た後、若きカントリーシンガーとして全米をツアーしていた著者は、
自分が歌う歌の中に描かれるアメリカの農村の、ロマンチックで牧歌的な風景が、現実の農家の生活とはかけ離れたものであることに気づき、
その真実を伝えなければ、と思い立つのである。そして彼女は、カリフォルニア州立大学バークレー校で地理学の博士号を取得した後、
自分が生まれ育ったモンタナ州で有機農業を営む農家たちの「革命」に、それを記録する者として加わることになる。
現在は、世界屈指の農学部がある同校の、「多様性農業システムセンター」の研究員である。
レンズ豆をはじめとするマメ科植物を輪作の一部として栽培し、それを鋤きこんで土壌の肥沃度を増すことで、農薬を一切使わずに、
悪天候にも耐えられる作物を育てる、というのが本書に描かれる「レンズ豆革命」の核心である。
だが革命はそれだけにとどまらず、やがて農場から流通機構へ、地域共同体のあり方へ、全国的な政策へ、と広がっていく。
画一化された工業的農業の単一栽培から、多様性に富んだ作物を育てる有機農業へ、というこうした変化はもちろん、
モンタナ州だけで起きていることではないし、世界各地に、そして日本にもその動きはある。
けれどもそういう変化の種から生まれた一つの大きな流れを、変化を起こした当事者の立場から描いたという意味で本書は興味深く、
かつ貴重であり、人口が増加の一途を辿る地球上でのこれからの農業の行方について一考を投じるきっかけとなる。
本書が広く読まれることを私が願う理由がもう一つある。
これまで私が訳させていただいた本は、それがたとえ自分で選んで提案したものでなくても、不思議と何かしら私の生活や環境に関係のあるものが多い。
それがいわゆる縁というものなのだろうと思う。アメリカの有機農業が主題の本書は、
農業とはまったく縁のない環境で育った私には一見無関係に思える内容なのだが、オファーをいただいたとき、これはまさに私が次に訳すべき本だと思った。
なぜならそのとき私は、ジョアンナ・メイシーとクリス・ジョンストンの共著『アクティブ・ホープ』という本を翻訳中で、
その本の中で語られる社会変革のためのコミュニティの役割や、あらゆる事象はつながっているという仏教思想に根付いた世界観が、
本書に登場するアメリカの有機栽培農家たちによってじつに見事に体現されていると思ったからだ。
その個性豊かな農家の中でも特に印象的な一人に、ケーシー・ベイリーという若者がいる。あるとき著者が、
大企業による産業化された農業に抵抗して学んだ一番大きな教訓は何か、と尋ねると、じっくり考えた末に彼は、
「一人じゃできないってことだね」と答える。そしてこれは、彼以外の登場人物にも共通する認識だ。
表層的な意味で人の助けを求める言葉ではない。自分の住む家を自分で建ててしまうような、自力で何でもやってのけられそうな強者の男たちが、
心からの実感とともに語る真実がそこにあるのである。世界はつながりで成り立っている。何か一つを変えたければ、
それを成立させている数々の要素も変わらなければならないし、何か一つが変われば、そこから次々と数限りない変化が起きていくのだ。
この先、私自身が畑を耕し、野菜を育てることはないかもしれない。でも本書に語られる「革命」は、農場で作物を育てる方法を変える、
というだけのことではない。作物を育てる土壌そのものを慈しみ、環境に優しい農業が成立するためには、
それを支える消費者の理解と行動にも変革が必要である。そして私にもその一端を担い、レンズ豆革命に参加することはできるのだ。
いや、生きるためには食べなければならない私たちの誰もが、自分が口にするものがどこからきて、どうやって育てられているのか、
そのことに責任を持たなければならない時代がすでにやってきている。
しっかりとした個人主義に拠って立ちながら、自分が正しいと思うことを、大勢に逆らってでも貫く。
頭でっかちな理想論ではなく、現実と向き合い、地に足を着けて、妥協点を見つけながら一歩一歩着実に前進する、
あくまでも謙虚なレンズ豆革命軍の戦士たちは、アメリカの一番良いところを体現する、魅力的な存在だ。
一人ひとりの意識が変わり、そういう意識が独立しながらつながり合って社会全体を変えていく、その見事な手本がここにある。
その意味で、農業関係者はもちろんのこと、誰にとっても一読の価値のある本であると思う。