| ロビン・ウォール・キマラー[著]三木直子[訳] 2,400円+税 四六判上製 272頁 2012年10月刊行 ISBN978-4-8067-1449-1 極小の世界で生きるコケの驚くべき生態が詳細に描かれる。 シッポゴケの個性的な繁殖方法、ジャゴケとゼンマイゴケの縄張り争い、湿原に広がるミズゴケのじゅうたん―― 眼を凝らさなければ見えてこない、コケと森と人間の物語。 米国自然史博物館のジョン・バロウズ賞受賞! ネイチャーライティングの傑作、待望の邦訳。 コケと自然から学ぶべき「人生哲学」がちりばめられた1冊。 |
はじめに コケ色の眼鏡を通して見える世界
コケの持つ「名前」
コケとの出会い
コケと岩の会話
見えないものに眼を凝らし、耳を澄ます
見えないものを見ようとする意識
光り輝くコケのじゅうたん
植物の中で最も単純、そして優雅なコケ
小さな世界で生きる
環境への見事な適応
大気と土壌の接点
空気の流れを変え、風をつかまえる
コケの生活環
植物界の両生類
陸上で生き残るための構造
遺伝子と環境が織りなす複雑な舞踏
シッポゴケ 女系家族と小さな雄
シッポゴケ一族
花嫁の葉の間に隠れる小さな雄
惹かれ合うコケと水
雨を夢見るコケ
水との親和性が高いデザイン
磁石のようにひかれ合うコケと水
何度でも蘇るコケ
スギゴケ 生態遷移におけるコケの役割
「見捨てられた鉱山」のコケ
スギゴケのじゅうたん
コケとクマムシの森
コケの作り出す小宇宙と熱帯雨林
熱帯雨林の動植物たち
コケとクマムシ
ジャゴケとゼンマイゴケ 岩壁の縄張り争い
岩壁に広がる植物
コケの縄張り争い
ヨツバゴケ 生存のための選択、絶滅を招く選択
植物生態学者と酪農家
クローンを作り出すコケ
ヨツバゴケの語る物語
自らを死に追いやるヨツバゴケ
ヒメカモジゴケ 偶然の風景
森の回復力
ヒメカモジゴケの繁殖戦略
ヒメカモジゴケのための競争場
ヤノウエアカゴケ 都会暮らしのコケ
都会のコケ
コケが嫌いな都会人
コケを招き入れる都会人
汚染を測る生物測定器
ネイティブアメリカンとコケ
ネイティブアメリカンの教え
コケの使い方
おむつやナプキンに使われたコケ
調理に役立つコケ
ミズゴケ 湿原に光る緑色のじゅうたん
ミズゴケの驚くべき生態
湿原の歩き方
湿原に響く「音楽」
オオツボゴケ 放浪の一族
オオツボゴケを探して
人工のコケ庭園 生命を持たない芸術作品
できすぎた依頼
作り出された緑
年月が作り出す景観
二度目の依頼
病める岩とコケたち
森からコケへの感謝の祈り
コケは森に不可欠
労働する森
巣作りの素材
「森」というコミュニティを一つに繋ぐ
コケ泥棒と傍観者
商品となるコケ
コケを刈り取る者たち
ヒカリゴケ 藁から黄金を紡ぐ
洞窟の中の光
ゴブリンの黄金
「科学」というものについての最初の記憶は(それともそれは宗教だっただろうか)、古びた市民ホールで行われた幼稚園のクラスでのことだ。
心躍る雪の結晶が初めて舞い降り始めると、私たちはみな、我先に凍てついた窓ガラスへと走り、鼻先を窓ガラスに押し当てた。
ホプキンス先生は賢明だったから、初雪という出来事に興奮する五歳児を押しとどめようなどとはせず、私たちは外に出た。
ブーツを履き、手袋をして、やわらかな白い渦巻の中、私たちは先生を囲んだ。
先生はポケットの奥深くから虫眼鏡を取り出した。
先生の紺色のウールの外套の袖で、真夜中の空の星のようにキラキラ光る雪の結晶を、初めてそのレンズを通して見たときのことを、私は決して忘れない。
10倍に拡大されたひとひらの雪の結晶の複雑さ、そのディテールに、私は本当にびっくりした。
雪のように小さくてありふれたものが、こんなに完璧に美しいなんて。
私はそこから目を離すことができなかった。
今でも、その初めての経験で感じた可能性や不思議さを、私は覚えている。
この時初めて(この時だけではないが)、この世には直接目に見えることがら以上のものがあるのだ、という実感があったのだ。
すべての雪の吹き溜まりは、星のような結晶が集まった宇宙のようなものなのだ、という新たな理解をもって、私は木々の枝や屋根の上に静かに降る雪を見つめた。
秘密めいた雪の真実に私は目が眩んだ。
拡大レンズと雪の結晶は、私を目覚めさせ、そのときから私には「見える」ようになったのだ。
世界はそのままでも美しいが、もっと近くで見れば見るほどさらに美しいものになる、と感づいたのはこのときが初めてだった。
コケの見方を学ぶということは、雪の結晶を見た最初の記憶と混ざり合う。
普通に知覚できる領域の1番端に、別の次元の、美しい生物体系がある。
雪の結晶のように小さく完璧な秩序をもつ葉や、複雑で美しい、裸眼には見えない生き物たち。
そこに注意を向け、見方を知ってさえいれば見えてくる。
私にとってコケは、周囲の風景と親しい関係を築くための手段である─森に伝わる秘密のように。
この本は、そうした風景への招待状だ。
初めてコケを目にしてから30年たった今、私はほとんど常に手持ちの拡大鏡を首から下げている。
その紐が、私のメディスン・バッグの革紐と絡まりあう─比喩的にも、実際にも。
植物に関する私の知識は、植物そのものや、科学者として受けた教育、それに私の血筋であるポタワトミ族の伝統的な知識に対する直観的な親近感など、いろいろなところから来ている。
大学で学名を学ぶずっと前から、私は植物を私の教師だと思っていた。
大学では植物の命についての2つの視点─主観と客観、精神と物体が、首からさげた2本の紐のように絡まりあった。
私が受けた植物学の教育は、植物に関する伝統的な知識を隅の方に押しやった。
この本の執筆は、そうした理解を取り戻し、本来それがあるべき位置に戻す、という行為だった。
はるかな昔から私たちに伝わる物語は、ツグミも、木々も、コケも、そして人間も、すべての生き物が同じ言葉を共有していたときのことを語る。
だがその言葉はずっと前に失われてしまった。
だから私たちは互いの物語を、互いの暮らし方を観察することによって学ぶ。
私はコケの物語を語りたい。
なぜならば、その声はほとんど聞こえないけれど、私たちが彼らから学べることはたくさんあるからだ。
彼らは、私たちが耳を傾けなければいけない大事なメッセージ、人間以外の生き物の視点を持っている。
私は科学者としてコケの生態を知りたいと思うし、科学はコケの物語を語る手段の1つとしては強力だ。
だがそれだけでは不十分なのである。
その物語はまた、関係性についてのものでもあるからだ。
コケと私は長い時間をともに過ごして互いを知り合った。
彼らの物語を語るうち、私は世界をコケ色の眼鏡を通して見るようになった。
ネイティブアメリカン流のものの考え方では、あるものを理解するには、私たちの4つの側面のすべてでそれを知らなければならない。
すなわち、マインド、身体、感情、そして魂である。
科学的な知識は、世界から得られる経験的な情報を、身体を使って収集し、マインドがそれを解釈することに依存している。
コケの物語を語るためには、私には主観的な方法と客観的な方法の両方が必要なのだ。
ここに収めたエッセイは意図的に、その両方の「識り方」を言葉にしたものだ。
物質と精神は仲良く肩を並べて歩く。ときには踊ったりもしながら。
アメリカには、「ネイチャーライティング」と呼ばれるノンフィクション文学のジャンルがある。ウィキペディアによればその特徴は
「自然界についての事実や自然、科学的情報に依拠する一方、自然科学系の客観的な自然観察とは異なり、自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考を含むということ」にあり、
「1・博物誌に関する情報(natural history information)、2・自然に対する作者の感応(personal reaction)、3・自然についての哲学的な考察(philosophical interpretation)」
という三つの要素を含むという。代表的なネイチャーライターには、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ラルフ・ウォルドー・エマソン、レイチェル・カーソン、それにジョン・バロウズなどの名前が挙がる。
そのジョン・バロウズ(1837─1921年)を記念して創設され、アメリカ自然史博物館によって運営される「ジョン・バロウズ協会」は、1926年以降、優れたネイチャーライティングの著作を毎年1冊選び、「ジョン・バロウズ賞」を贈っている。
2005年に同賞を受賞したのが本書である。
この事実が、この本がどんな本であるかを十分に語っていると思う。これは「コケの本」ではあるが、単なる植物図鑑とはほど遠い。
大変身近なものでありながらおそらく一般人のほとんどは知らないであろう、びっくりするようなコケの生態が詳細に描写されると同時に、そこには、作者のコケに対する溢れるような愛情と、コケと自然から私たちが学ぶべき人生哲学がちりばめられている。まさにこれは、ネイチャーライティングの最高峰と言える。
その語り口はほとんど詩的と言ってよく、植物誌を読んでいるというよりも、洒落た短編小説を読んでいるような気にさえさせる。
見ようとしなければ見えない極小のパラレルワールド。あたかも著者が首から下げている拡大鏡でそれを覗いているかのように、この本の中で、日常の風景はいつもと違った姿を見せる。
そうして拡大鏡の中の小さなコケの世界はいつしか鏡となって、私たちの周囲の等身大の世界を同時に映し出す。
コケについての興味深い事実について読みながら、いつの間にか私たちは、自分を取り囲む世界の、これまで考えたこともなかった様相に気がついていくのだ。
拡大鏡の中の小さな世界と、そこから見上げる大きな世界に自分が同時に存在しているような不思議な感覚。
そしておそらく、実際にそうなのだ。コケも、私たち人間も、同じ自然という秩序の中に生きているのだから。
本書の著者は、北米の五大湖地方に暮らしていたネイティブアメリカン、ポタワトミ族の出身であり、ニューヨーク州立大学の College of Environmental Science and Forestry(環境森林科学部)で准教授として教鞭を執る傍ら、
学部内に2006年に設立された Center for Native Peoples and the Environment(ネイティブアメリカンと環境センター)のディレクターを務める。このセンターは、環境保護に関し、ネイティブアメリカンに昔から伝わる伝統的な知識と、科学としての地球環境学の知識を融合させることを目的としている。
本書の中で「ネイティブアメリカンとコケ」と題された1章には、まさにそれが実践される様子が描かれている。そこに登場するジーニー・シェナンドアというオノンダガ族のハーバリストがセンターの理事に名を連ねていること、本書の出版がセンター設立に先立つ2003年であることを考えると、おそらくこのセンターは著者のビジョンが形になったものなのではないだろうか。
ヒト、動物、植物、そのすべては自然の一部であり、相互に深く関係し合っている─それはネイティブアメリカンの考え方の根底にあるものであり、彼らは自然こそがあらゆる意味での教師と考える。
そう考えれば、彼らが自然について語るとき、自然に対する思いや自然についての哲学的な考察がそこにあるのはしごく当然なことに思える。
そして環境や植物に関する学問・科学としての知識が加われば、それはまさにネイチャーライティングのエッセンスのすべてを備えた知恵となる。
そういう知恵を具現化しようとしているのが Center for Native Peoples and Environment であり、そのディレクターである著者が優れたネイチャーライターであるというのも大いに頷けるのだ。
この本の翻訳の話をいただいたときにたまたま滞在していたバリ島と、私が毎年夏を過ごし、本書にも登場する太平洋北西部沿岸は、どちらも雨が多くて緑豊かな、ことのほかコケの豊富な土地柄である。
以前から、木々の幹を見事に覆うコケに感心することはあったけれど、この本を訳して以来、今まで以上にあちこちにコケがあるのに気づき、しみじみとコケを眺めることが多くなった。
「観る」ことを少しは学べたのかもしれない。幸いなことに、コケは田舎にも都会にも生えている。この本を読んだ方が、ふと普段の通り道の足元に目をやり、それまで気づかなかったコケの存在に気づいてくださったなら、そしてコケを取り巻く自然の営みに思いを馳せてくださったなら、とても嬉しい。
ワシントン州ウィッドビー・アイランドにて
2012年8月 三木直子 記