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帝国海軍士官になった日系二世 【内容紹介】本書「はじめに」より | |||
19世紀後半、1860年代から日本人の海外移住が始まった。当初はハワイ諸島への農業労働力としての移住だったが、その後、北米、カナダ、中南米とつぎつぎに移民ブームが訪れ、今世紀の初めまでに数十万人の日本人が海を渡った。 この人たち(一世)は異国での筆舌に尽くしがたい苦労の結果、それぞれの生活を確立して家族を作った。そして誕生したのが二世である。二世は親と違って出生国の国籍をもち、その国で教育を受け、その国に忠誠を誓うこととなった。太平洋戦争が始まり、この二つの国の間に存在した人たちは再び精神的苦痛を味わう立場に立たされた。 ここに紹介するのは、ある移住家族の歴史と、偶然、日本滞在中に戦争に巻き込まれた2世たちの記録である。正確な人数はわからないが、この、歴史から忘れられようとしているマイノリティーの人たちが経験した苦悩を知ることも、今世紀に生きる者として意義あることと思う。 1945年4月6日。敗戦色の濃くなった日本で、「天一号作戦」と名づけられた日本連合艦隊最後の特攻出撃が行われた。 この作戦に参加した第二艦隊旗艦「大和」、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」を主力とする残存艦隊は、鹿児島県徳之島沖水域において米軍大機動部隊の猛攻撃を受け、大半が海の藻屑と消えた。この敗北により、真珠湾攻撃以来3年余で、日本連合艦隊は事実上消滅したのである。日本海軍の損失は世界最大の戦艦「大和」とその乗組員戦死者3000名余、巡洋艦「矢矧」と戦死者400名余。そのほか駆逐艦4隻と多数の兵士の死亡が記録に残されている。 この作戦にあたり、「大和」「矢矧」の両艦には、海軍大和田通信隊から選抜された日系二世の士官4名と准士官2名が、敵側情報の傍受という重要な任務を帯びて参加していた。 「大和」に乗り組み、壮烈な戦死をとげたカリフォルニア生まれの中谷邦夫中尉の24年の生涯については、この作戦に参加された吉田満氏がその著書のなかで「太田孝一」の名前で詳細に記述しているが、「矢矧」に乗艦し、奇跡的に生還した一人の2世士官の生涯について知る人は少ない。米国に生まれ、米国国籍をもちながら、苛酷な運命に翻弄され、複雑な境遇と感情の狭間に悩みつつも、最後まで日本帝国海軍軍人としての誇りをもって国家への義務と忠誠を果たし、20歳余の若さで南海の華と散った5名の日系2世海軍士官のご冥福を心からお祈りするものである。 ここに幸運にも、ただ一人生還した2世海軍少尉の記録を可能なかぎり忠実に再現し、この5名のほかにも戦死された日系2世の方々の御霊前に捧げて追悼の意を表したい。 その2世の名を山田重夫という。 | |||
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