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三峡ダム 建設の是非をめぐっての論争

【内容紹介】本書「日本語版の刊行に寄せて」より


 この本は、慌ただしい状況の下で出版された書物です。当時、インタビューを行った者も、またインタビューを受けた者も、いずれの人たちも、政府当局が、あのように素早く反応するとは思ってもいませんでした。つまり、当局は、まず最初に、プロジェクトをしばらく棚上げにすることを決定しておいて、その後直ちに本書を発売禁止にする命令を下してしまったのです。私自身としても、その後に切羽詰まった状況に追い込まれるとは思ってもいませんでした。つまり、批判にさらされ、免職され、あるいは監禁までされるとは、予想外のことでした。
 これに加えて思ってもいなかったことは、その後数年間に、世界の至る所において、この書の読者と良き理解者がいるということを知ったことです。当時、この書物の作成に参画した人たちが行動し発言したのは、どうしても自ら行動せずには、また発言せずにはおられなかっただけのことだったからです。
 中国においては、すでに半世紀にわたって、思想と言論は厳しく制約され、組織も系統化され、経済面と軍事面での独占的支配によって支えられた「禁固」の状態が続いてきています。もしこのような重圧の下であっても、依然として幾人かの人たちが、損得を度外視して、物事の善悪だけを問い、また栄辱と身の危険を度外視して、道義と良識だけを問い、この稀有で貴重な大河を維持し、守ろうと、自らささやかではあるが、地道な努力を続けているのであれば、その場合には、少なくとも、この「禁固」状態は、すでに中国人の一人一人の頭の中では、もはや固く凍り閉ざされたものではなくなったことを意味します。
 巷では、次の世紀は、太平洋の世紀になるであろうと言われています。その際に、日本は、どのようになり、また中国は、どのようになるのでしょうか?武力と財力をひけらかすことは、いずれも、すでに過去の歴史的記憶の事柄となりました。中日の間での過去の一切の事柄を想起し、またこの小書と長江三峡が遭遇した一切の事柄を想起するならば、私たちとしては、太平洋の世紀とは、この大洋に面する人々が望んでいるいくつかの新たな事柄--環境の保護に配慮を払うこと、さらに明朗で自由な精神を発揮すること--が必ずや備わることを期待することができるかもしれません。
 秀麗な三峡のために行われたささやかで絶望的とも言えるこの呼び掛けは、こうした新たな願望の実現に向けての一つの模索でもあるのだと、私は考えております。
【内容紹介】本書「この書を読まれる方に」より

 三峡は、両岸が深く切れ込んでおり、幽玄で秀麗な趣をたたえている。この地は、黄河流域と並ぶ古代文明の発祥の地であり、また『三国志』に描かれる劉備、関羽、張飛などが、覇を競って抗争した舞台でもあり、三峡の両岸には、数多くの歴史的・文化的遺跡が残っている。李白、杜甫、白居易などの詩人も、この地をしばしば訪れ、数多くの詩を残している。また、三峡渓谷は、幾多の画家により、山水画の題材としても描かれてきている。
 一般の人びとの間でも、三峡は、景勝の地として古くから知られ、ここを訪れる内外の観光客も多い。三峡は、アメリカのグランド・キャニオンと並ぶ世界有数の峡谷であるが、グランド・キャニオンが、野性的な興趣のある雄大な自然の一大パノラマを呈しているのに対して、三峡は、自然環境と人工環境が見事に調和した景観を呈している。このような自然美と人工美とがマッチした景勝の地は、地球上に類例を見ないもので、人類の共通遺産と言っても過言ではない。
 他面において、長江の中・下流域は、しばしば大きな洪水に見舞われてきた。特に19世紀における二度の大洪水では、長江中流の荊江の南岸が氾濫し、多大の被害が発生した。また、今世紀に入ってからも、長江の流域は、しばしば大洪水に見舞われている。とりわけ1954年の洪水の際には、約3万人の死者が発生し、およそ100万人の人々が家屋を喪失した。
 こうしたことから、1920年代以来、三峡に洪水制御と発電を中心とする多目的ダムを建設しようとする構想が唱えられてきた。三峡ダムの建設構想の最初の提唱者は、孫文であった。孫文は、1919年に、『実業計画』の中で、三峡の地において、水力発電の開発を行うとともに、航路の改善に役立てることの必要性を説いた。孫文はまた、1924年にも、『民主主義』の中で、三峡の水力資源の利用法として3000万馬力の発電所を建設することを提唱した。
………(中略)………
 1992年4月3日、全人代の第7期第5回会議において、「三峡プロジェクト建設決議」が採択された。
 しかし、この決議は、全人代の歴史始まって以来の異常事態の下で採択された。というのは、従来、全人代では決議は全会一致で採択されるのが一般的であったのであるが、「三峡プロジェクト建設決議」の採択にあたっては、多数の反対票と批判票が出たからである。
 多数の反対・批判的意見があるにもかかわらず、中国政府は、1994年12月14日に、湖北省宜昌市の上流40キロメートルに位置する三斗坪において、三峡ダムの建設に着工する式典を挙行した。こうして、現在、ダム建設のための第1期工事が進められてきているのである。
 しかし、三峡プロジェクトの前途は多難である。とりわけ深刻な問題は、住民立ち退きと土砂堆積の問題である。100万人以上と言われる住民立ち退きが、はたして円滑に行い得るのかは、極めて疑わしい。また、堆砂問題が有効に解決され得るのかどうかは疑問のあるところである。この問題が解決できなければ、ダムの寿命は、短期間で尽きてしまうことになる。これに加えて、三峡ダムは、はたして洪水防止の役割を果たし得るのかどうか、また予定されるような発電が、はたして可能なのかどうか、さらに船舶航行は、はたして維持され得るのかどうか、といった問題もある。このほか、地滑り、土砂崩れとか、地震とかによるダム崩壊の危険性の問題、水質汚染などの公害問題、歴史的・文化的遺産の水没問題、カラチョウザメ、長江カワイルカなどの稀少種への影響といった環境問題など、数多くの難題が山積している。
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