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ヒットラーでも死刑にしないの?

【内容紹介】本書「はじめに」より


 日本の死刑廃止運動は、1989年に国連が死刑廃止条約を採択したのがはずみになって、その前後からずいぶん盛り上がり、今ではかなり大きな市民運動の流れの1つになっています。国会にも死刑廃止推進議員連盟ができました。死刑廃止の考えも、15年前とは天と地ほどに通りがよくなってきました。しかし、国側の巻き返しも激しく、一時はなかった死刑判決、死刑執行が目立ってもいます。そんな時節に、改めて廃止の意見をはっきりさせておきたい--それが本書を思い立った動機の1つです。
 また、死刑はよくないと思うけれど、具体的な死刑支持論にぶち当たると、どう答えたものか、どう考えたものか、迷ってしまう、という人々、昔の私みたいな人々が今も少なくないようです。そんな中には、私の考え方がとても参考になった、と言ってくださる人がありました。おこがましいことですが、もしかすると本当に役に立つところがあるかもしれない--それも本書を企てた動機の1つです。
 三つ目に、私は宗教者でもなければ学者、研究者でもない、ということがあります。人殺しはよくない、という誰もがふつうに持つ平凡な意見があって、死刑に反対するようになっただけです。特に宗教的、哲学的な気高い生命観や、人権、法律、思想などについての深い研究から、死刑に反対したわけではありません。15年の間には、むろんいくらか勉強しましたけれど、「なぜ私は死刑をなくしたいのか」という基本については、徹底的に自分で、自分のことばで考えてきました。そして、気高い生命観や深い学識がなくても、死刑廃止の考えは確立する、と身をもって知りました(それどころか、深い学識や思索は、それだけでは死刑支持の方に結びつく場合がある、ということも知ったのですが、それについては本文で触れることになると思います)。つまり、死刑廃止を唱えるには、しっかりした論理が不可欠ではあるけれど、そのために専門的な思索や学識を必ずしも必要としない、ということです。ふつうの人が常識をもって考えるだけでも、死刑廃止のきっぱりした結論にいたることができる、ということです。
 法学者や宗教者、それに何らかの意味で専門的な立場の人が作ったすぐれた廃止論の本が、今はたくさん書店にありますが、常識だけで考えたようなのはあまり見かけません。そういうものも、世の中に廃止論を広げてゆくには、役立つかもしれない、死刑廃止論は案外、とっつきやすいと思ってもらえるかもしれない--そんな考えもあって、この本を企てました。
 私の考えを鍛えてくれたのは、何よりも、実際に出会う死刑支持論、あるいは死刑廃止論に対する疑問の数々でした。だから本書では、それらの中から、特に印象的で、しかも重要だと思う五つを取り上げ、それに因んで私の意見を述べてゆくことにしました。これら五つは、読者や、読者が説得したい、と思っている人びとの中にも、きっとあるものだから、少しはみんなの議論の参考になると思います。そう願っています。
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