書誌情報・目次のページへ 書評再録のページへ 読者の声のページへ
オランダ流御典医 桂川家の世界 江戸芸苑の気運

【内容紹介】本書「はじめに」より


 ここに主役として登場する戯作名を森羅萬象、あるいは萬象亭と称する人物は、一般には異色の蘭学者として森島中良の名前がもっともよく知られている。
また、狂歌名を竹杖為軽と称して、江戸時代も半ばすぎ、いわばこの国の転換期をむかえる時代に狂歌師として自由奔放、まさに歌舞伎の隆盛にならって、変化自在に生きた人物でもある。
 この時代、多くの人物がそうであるように、萬象=中良=為軽についての適切な伝記的史料は限られている。ただ、種々の名前をもつことからも想像できるように、彼は自ら多様に〈変化〉をこころみながら各分野に博識多才であり、人間交際もひろく行動的な奇才であった。
 しかも、将軍に仕えるオランダ流外科を奉じる御典医・桂川家の次男としてめぐまれた出自にあり、いわば本名である桂川甫斎と名のることもあった。その点では、森羅萬象(為軽、中良)の個人的な伝記は、この時代の特徴として、しばしば桂川家の〈家=イエ〉の歴史=家伝のうちからも補うことができる。
 代々敏才にして好学の学者を輩出した桂川家は医学だけでなく、多分野に多彩でゆたかな人間関係をもっていたことで、当時の江戸在住の蘭学者や文人墨客たちが残した史料のうちにも、断片的ながらその名を見いだすことができる。
 このように、萬象の体内には桂川家代々の紅い血が多彩に織りなしながら流れている。そのために、当時の桂川家について語ることは、同時に、変化自在な萬象個人の全体像に迫り、その思想と行動について、何ほどか語ることにつながるであろうし、また、その逆も真理となりうる。
 さて、この国の近代を歴史的に語るとき、18世紀後半にあたる宝暦から天明期がひとつの架橋になると位置づけられて、すでに久しい。この時期、蘭学の家としての桂川家は第三代国訓のもとに孝子甫周、中良の兄弟をむかえて隆盛にあり、彼らは江戸芸苑の世界に新気運をもたらすひとつの契機を生みだした。
 当時としては、オランダ流外科を奉じる御典医でありながら学芸に傑出した兄・桂川甫周国瑞こそがその主役であったが、本書ではその背後にあって忠実な黒衣に徹した弟・森島中良=森羅萬象が舞台の主役を演じることになる。彼には来たるべき新世界を広角に透視する魚眼レンズにも似た好奇の目がそなわっていたのである。それは名家の次男坊の醒めた目であり、冷静沈着な複眼をもった奇才としての眼光を放つものであった。
 本書は江戸芸苑のキー・ステーションとなった桂川家の知的周縁を森羅萬象、萬象亭の小宇宙を通じて垣間みたい。それは同時にきらめく大都市・江戸の知的な万華鏡の世界でもある。
トップページへ