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ホームレスになった 大都会を漂う

【内容紹介】●本書「あとがき」より


 彼らはなぜ、路上生活をはじめるのだろうか。こんな疑問がおぼろげではあるが、解けてきたような気がする。
 彼らの多くは、経済的貧困だけを理由に路上生活をはじめたわけではない。もちろん、経済的事情も大きな要因とはなっているであろうが、決定的なことは、人間関係を失ったことによって路上に出てきているということだ。
 自分が路上生活をはじめると仮定して考えてみればいい。経済的に困ったからということですぐさま路上生活をはじめることはないだろう。とりあえずは、周りの誰かに助けてもらえばいいのだし、場合によっては借金してもいい。だが、問題はこの支えてくれる家族や友人を失い、借金をするための信用を失ってしまったときである。周囲の誰からの支えも期待できなくなった時は、もはや選択の余地はない。あなたは、路上で生活をはじめるしかなくなってしまうのだ。
 逆に、なんらかの理由で家族との信頼関係を失い、友人との友情関係が崩壊した時、つまり人間関係を失ってしまった時には、必ずしも経済的な事情をかかえていなくとも、ただちに路上生活をはじめるための十分な条件となる。
 だから、経済的にある程度めぐまれたホームレスがいても、決して驚くに値しないし、「お金があるのに、何もこんな生活をしなくとも……」と考えるのは、見当違いであることも知っておいたほうがいい。人間関係に絶望したり興味を失った人が、家というスタイルをつづけていくのか、それとも路上を選ぶのかは、まさにその人の価値観による選択なのだから。
 なぜ今、ホームレスが増加するのか。
「バブルがはじけて不況となったから増加するのだ」という答だけでは、多分不十分だ。もちろん、働く場所を失い、生活をしていけなくなった人たちが増加すれば、それだけ路上生活者予備軍が増えてくるのは間違いない。しかし、気になるのはバブル時代が産み落した「人間関係の貧困化」のほうである。
 バブル経済という高度経済成長の徒花のあとにつづいた平成不況は、そのブレーキがあまりにも急激でショックが大きかったので、いろいろな矛盾を露呈させはじめている。こんな中でも、政界を揺るがしているゼネコン汚職などは、この時代に人の心がいかにカネに狂わされていたのかをこれでもかこれでもかとばかりに見せつけているようだ。そして、こうしたカネとモノに支配された心の歪みは、庶民といわれる私たちの生活の中にもさまざまな病弊を生み出してきた。
 すべての価値がカネとモノに収斂していった時代が残したものは、“心の喪失”という寒々とした風景だったような気がしてならない。その結果は家庭や家族が崩壊し、結婚が問われはじめて、夫婦関係があらためて問い直されることになった。こうした自明の理とされてきた基礎的な単位での集団の価値までが問題にされなければならない時代がやってきたのである。
 高度経済成長の神話の中で、すべての集団が利益を求める集団と化し、その本来の機能を見失ってしまったからである。夫婦や家族も例外ではなかったはずだ。子供の教育や、マイホームを自己目的化してしまった家庭生活、そしてその経済的支えを一身に背負わされることになってしまった企業戦士たち、こんな歪みを抱えて走りつづけてきたツケが今、まわってきたのである。
 家庭と学校、そして企業という集団にのみ傾いた日本社会のいびつな集団化現象は、現代の人間関係の崩壊を準備してきた大きな要因でもある。地域に共同体を持たず、企業を超えた連帯が育たなかった社会、無制限な競争を容認することでコミュニティの崩壊を進めてきた反省が今、必要な気がする。
 コミュニティの崩壊が進んだアメリカがそうであるように、こうした社会が今後も大量のホームレスを生み出さないという保証はどこにもない。その意味では、まさに“ホームレスの時代”がやってきたという言い方もできそうである。
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