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人工生殖のなかの子どもたち 生命倫理と生殖技術革命

【内容紹介】本書「訳者あとがき」より


 子どもを持つとはどういうことなのか。はじまりに立ち返ってそう問えば、自ずと、カップルとは何か、という問題にぶつかる。一組の男女が子どもを持つというのは、何かを伝えようとする行為であるだろう。だが、何を子どもに伝えようとするのか、伝えるということは何なのか。それはまた、愛するとは何か、を問うことでもある。
 人は、ひとりでは子どもが産めない。どんなに技術が進もうと、新しい命の創造には自分以外の他者が必要だ。男がいて、女がいて、はじめて子どもが生まれる。それは、ひとりの人間という個体にいつか死が訪れるのと同じような意味での、私たちの存在に課せられたひとつの「制約」である。こうした「制約」や、不妊症をはじめとする多様な「障害」を取り除くことに夢中になるあまり、私たちは他者をも見失うことになってしまったのではないだろうか。
 ここに描かれたごくふつうの人たちの姿を通して、ジャン=フランソワ・マテイは、最先端医療技術の現状が、いかに私たちの深いところを揺さぶる問題であるかを明らかにしてゆく。この本に登場する人物たちはどれも、著者が、診療を通じて出会った実在の人たちの姿である。だからこそ、これほどの説得力があるのだろう。著者自身、遺伝学にとことん魅せられ、最新の遺伝学の発達とともに歩んできた人物であり、遺伝学の裏も表も知り尽くし、長年、そこにかかわる生身の人間の苦悩に直に接してきた。彼自身の抱える苦悩も衒うことなく行間に描き込まれている。それが本書に、矛盾を含みながらも深い人間性を感じさせずにはおかない幅と厚みを与えている。
 最近、日本でも、遺伝子治療や体外受精、海外における代理母出産などのニュースをよく耳にするようになった。しかし、私たちの元に届くそうした情報は非常に断片的で、命のはじまりにかかわる問題の全体像は、なかなか見えてこない。報道されたとしても、技術のもつ危険性や、背後にいる人間の肉体的苦痛、心理的葛藤が語られることはほとんどない。また、人工生殖や遺伝子治療が、社会的、歴史的にどれほど大きな波紋を投げかける問題であるかということも、まだ本当には理解されていないように思われる。
 臓器移植や脳死をめぐる議論と同様、人工生殖をめぐる医療と倫理の問題は、非常に個人的な問題でありながら、個人の領域を突き抜けて、社会、ひいては人類全体の将来を問う、おそらく21世紀にとって決定的な問題であるだろう。
 命の始まりは誰にも定義できない。
 フランスの「生命倫理法」でも、その辺りはあえて曖昧にしている。だが、私の質問に答えて、マテイはこう定義した。受胎した瞬間からそれは紛れもなく人間の命だ。まだ人ではないが、人になる可能性、人になる企てをもった命の始まりである、と。
 そうした命をどうとらえるか。また、子どもを産む、または育てるということを、個人が、社会がどうとらえるのか。
 たとえどんなに望んで、どんなに高度な知識と技術を駆使して「完璧」な子どもの親となれたとしても、それで一生、理想の幸福が保証されるわけでは決してない。完璧な子どもも、いつ事故や病気で、障害をもつことになるとも限らないのだから。生きるということは、そうした不当さや矛盾の連なりでしかない。完璧な子どもを持ちたいという欲望が膨らめば膨らむほど、私たちの人生の幅は、広がるどころか狭くなり、社会はより貧しいものとなるだろう。
 日本もまた、人工生殖大国となる可能性がある以上、最終章で触れられているレバノンの人たち同様、今から討議の場を設け、考えを深めておく必要があるだろう。おそらく、本書の登場人物に自分の姿を重ねる人たちは、日本にも数多く存在するはずだが、そうした人びとの迷いや不安や苦悩に社会が寄り添い、その声を社会自体のあり方に反映させるというところまではまだまだいっていない。この本が、なお蓋をされたままのそうした本質的な問題の奥行き--特に、その人間的側面--の理解の一助になるとしたら、訳者としてそれ以上の幸せはないだろう。
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