| ヨアヒム・ラートカウ[著]山縣光晶[訳] 3,200円+税 A5判上製 352頁 2013年12月刊行 ISBN978-4-8067-1469-9 ヨーロッパは、文明の基礎である「木材」を利用するために、どのように森林、河川、農地、都市を管理してきたのか。 王権、教会、製鉄、製塩、製材、造船、狩猟文化、都市建設から木材運搬のための河川管理まで、錯綜するヨーロッパ文明の発展を「木材」を軸に膨大な資料をもとに描き出す。 |
ヨアヒム・ラートカウ(Joachim Radkau)
ビーレフェルト大学名誉教授。
1943年、ドイツのデトモルト近郊、オーバーリュッベ(現在のヒレ)に牧師の子として生まれる。
ミュンスター大学、ベルリン自由大学、ハンブルク大学で学ぶ。1970年、1933年以降敗戦までのアメリカにおけるドイツ移民の役割に関する研究によりハンブルク大学で博士号取得。1973年、ヴェストファーレン=リッペ教育大学講師。1980年、ドイツ原子力産業の興隆と危機と題する論文で教授資格取得、1981年からビーレフェルト大学歴史・哲学部(現在は歴史・哲学・神学部)教授(近現代史)。
ドイツにおける環境史学の創始者の一人として著名。産業と政治の関係史、環境史、自然保護史、技術史、マックス・ヴェーバーなどに関する数多くの著作がある。
邦訳書に『自然と権力――環境の世界史』(2012年 みすず書房)がある。
山縣光晶(やまがた・みつあき)
ドイツ森林・環境政策調査研究所所長。
1950年東京に生まれる。
1972年東京農工大学林学科卒業。
2013年上智大学大学院博士後期課程文学研究科(ドイツ文学専攻)単位取得満期退学。1972年林野庁入庁、定山渓営林署長、林野庁国有林野総合利用推進室長、近畿中国森林管理局計画部長などを経て2000年退官。この間、1976年から1978年までドイツ連邦食糧農業森林省林業林産研究所客員研究員。2001年から岐阜県立森林文化アカデミー教授、京都精華大学、東京農工大学講師(非常勤)、林道安全協会専務理事、全国森林組合連合会常務理事、林業経済研究所所長などを歴任。
専門は、ドイツ語圏諸国の森林政策、環境政策、森林・自然観、ドイツロマン主義文学(ルートヴィヒ・ティークなど)の研究。
はじめに
この本の成立について
第1章 歴史への木こり道
「木の時代」
1.原材料は歴史をつくるか
2.木だ、木だ、どこもかしこも木だらけだ
3.先史時代―最初に火があった
4.古代―想像上の森の危機
5.森への依存―時限爆弾か、それとも、非常ブレーキか?
人間と森―歴史を物語る数々の歴史
1.饒舌な歴史と、沈黙の歴史
2.森の生業の歴史と木材業の歴史の転換期
3.森とは何か―また、森は木だけで成り立っているのか
歴史的変遷における木材の自然としての本性
1.よき時代と悪しき時代―時代は自然に逆らうのか
2.木材の種類の特性と、変転する利用価値
3.木材の消費の分類
4.森の経営の形態
5.「木材の瑕疵」とは何か―自然原材料である木材につきまとう技術的諸問題
第2章 中世、そして、近世の曙―蕩尽と規制の間にあった木材資源
森の限界に突きあたる中世社会
1.開墾から森の利用の規制と管理へ
2.マルク共同体の住民と木の裁判
3.森の所有を巡る闘い
4.農民が「吸血ヒル」だとしたら、領主は森の「救い手」だとでもいうのか
建築用木材と様々な用途の木材―木材が交易商品となる
1.造船のためのナラの木―木材の枯渇の始まりと木材の交易
2.木造軸組構法の家屋―木組みの技法から建築術へ
3.手づくりの木工製品、その全体像と分化独立
薪の大規模消費者の勃興と第一波のフォルスト条令
1.「火を使う生業」と木材
2.鉱山・鉱業における繁栄の陶酔と「木材のブレーキ」
3.木材飢饉―それはだれのためのものだったのか
4.フォルスト条令と鉱山の利害
5.ニュルンベルクの針葉樹の種まきによる森づくりと、ジーガーラント地方のタンニン樹皮採取業
6.筏流しと管流し―木材業の原動力としての水運
7.薄明かりの中の森の生業―木灰生産者、木ピッチや木タール生産者、森のガラス職人、炭焼き職人
8.発明の目的としての木材の節約
第3章 産業革命前夜―「木の時代」の絶頂と終焉
改革、革命、そして、木材業
1.通商革命、木材景気、そして、オランダ向け木材の筏流し
2.資本主義と保護主義
3.国家の改革と林業林政改革
4.「農業革命」、森と農地の境界
「木材飢饉という亡霊」―木材業は破局を目の前にしていたのか
1.18世紀に鳴らされた非常警報と歴史家たち
2.不足化する木材―構造的制度的危機だったのか、それとも環境の危機だったのか
3.運送システムの隘路
4.18世紀における地方分散的な工業化
5.木材不足への関心―嘆き声と、その逆の声
6.林業林政改革と環境の危機
森―生活の空間から資本へ
1.人工的産物としての森と算術問題としての森
2.仕組まれた木材不足
3.森における「自由」―私有財産と「木についての軽犯罪」
4.森林官と伐採夫―森の仕事が職業になる
5.林業労働者
6.鋸に敵対した伐採夫たちの蜂起
7.製材工場の勃興
木材の消費者―家計を営む者の木材の節約、拡がる木材の節約
1.魔力を失う火―木材の経済、時間の経済
2.窮乏は発明をなすか―「木材という糧食」と技術の変遷
3.製塩所
4.製鉄業
5.建築部門、工業化と木材
6.木造船の造船
7.木炭―木材節約手段から工業の膨張の駆動力に
しだいに押しのけられる木材
1.道具と機械―「木の時代」の終焉
2.鉄道―新しいタイプの技術
第4章 高度工業化時代―材料への変質と木材のルネッサンス
森―工業化の時代の経済の原動力
1.「森を殺戮するような経営」か、それとも持続的な森づくりか
2.新しい「木の時代」を巡ってせめぎ合う未来像
3.利回りの問題を前にした林業
4.森の経営の強化―「工業用木材」への移行
5.機械化による合理化―林業労働における技術の変化
木材工業における技術革命
1.工業原料へと変身する木材
2.製紙用原料
3.新しい木質系工業材料(合板、パーティクルボード、繊維板)
4.家具づくりの遅れてやってきた工業化
5.木材半製品の製造における合理化と機械化の推力
6.木造軸組構法家屋建築と集成林家屋建築―大工の技法から高度な技術計算がなされた木造建築物へ
断絶を招く原材料、つなぎ合わせる手段―環境保護の時代における森と木材
1.「環境革命」の始まり
2.森への環境保護的な眼差しと情緒的な眼差し
3.「森林死」という恐怖のシナリオ
4.森の経営における転換
5.カリスマ的段階にある環境保護の時代と官僚主義化の段階に入った環境保護の時代
6.「自然のままであること」という実験―自然保護のコンセプトを巡る論争
7.気候変動とエネルギー危機―大きな緑の連合の成立か
第5章 国境を越えて見る―西欧文化以外における木材と森の生業
グローバルな視野とコントラスト―アジア諸国の事例
1.真の意味での木の文化―日本
2.中国―迫り来る砂漠に対する一つの「緑の長城」
3.インドにおける森の保護―植民地時代の遺産から村落共同体の抗議へ
4.途上国の模範であるネパール
相克と(自称の)解決策
1.熱帯における森の破壊
2.プランテーション的経営と「傍若無人に生い茂る森」―ユーカリの事例
3.薪―昔も今も世界の主要なエネルギー資源
翻って将来を展望する―森と木材の歴史における他と際立って違う6つの特性
【付録】
森林認証の秘密についての追伸―持続的な林業を環境保護運動もどきと区別する難しさ
木や木材と森についての名言集
訳者あとがき
著者・訳者紹介
本書は、ドイツの歴史学者、ヨアヒム・ラートカウのHolz─Wie ein Naturstoff Geschichte schreibt (原著を文字通り訳せば『木材─自然原材料はどのように歴史をつづるのか』)の2012年に出された改訂増補版を訳したものである。ラートカウは、ビーレフェルト大学の近現代史学の名誉教授で、近現代史、技術史、マックス・ヴェーバーなどに関する数多くの著作があるが、近年は環境史の研究を進め、現代ドイツにおける環境史研究の第一人者である。
本書は、古代から現代に至るまでの広範な木材利用の歴史と、これと表裏一体となる人間と森の関係の歴史を、ドイツ・ヨーロッパはもとより日本やアジアも含めた世界的、文明史的な視野に立って描いたものである。環境の世紀といわれる時代を生きる私たちは、現在、たしかに著者ラートカウが本書の冒頭で述べるように、数年前まではだれも考えもしなかったような木材のルネッサンスを体験している。森という自然の恵みである木材と人間が織りなす歴史を、技術史の視点だけでなく、社会史や経済史、文化史、環境史の視点も含めて総合的に描いた本書は、人間と木材や森との関係の来し方を顧みて理解し、その行く末を展望する上で数多くの示唆を私たちに与えてくれる。
ラートカウは、原著において人間と木材あるいは森とのかかわりを随所でドイツ語のウムガング(Umgang)という語を用いて表現している。ウムガングには、「つきあい」、「交際」、「交友」、「交わり」、「関係」などの、また、その動詞形であるウムゲーエン(umgehen)には、「つきあう」、「交わる」などの意味がある(もっとも、本書ではその語を「交際」、「つきあい」とは訳さず、「関係」ないしは「交わり」と訳しているが)。ウムゲーエンには「(あるものを)扱う」という意味もあるので、即物的、実務的にいえば、木材とのウムガングとは「木材あるいは木を人間が扱うこと」あるいは「木材の使用」ともいえるわけで、事実、本書では文脈によってはそのように訳している箇所も少なくない。しかし、人間と木材・森との相互のかかわりについてラートカウが、たとえば関係を意味するベツィーウング(Beziehung)などの語を使わずに、「つきあい」「交友」「交わり」を意味するウムガングという語概念を一貫して用いていることは、重要であり、ここに本書の基本的な性格、理念が表されているように思われる。
訳者なりにその語をもってラートカウのいわんとするところを解釈すれば、人間は、木材や森を単にある目的の対象として「扱う」のではなく、おのれの生の伴侶として交友してきたのである。人間は太古より、なんらかの形で絶えず、自然の恵みである木材という原材料を利用して生を営んできた。木材を使うことで知恵を磨き、技(技能・技術)が生まれ、発達し、生活の中でそれが文化となった。日々の暮らしを営む、すなわち生存に必要なものとして木材を使う限り、そこには、おのずと本来有限の自然原材料である木材や、これを育む森の有限性に気づき、何らかの節度ある振る舞い、森や木材を大切にしていこうという態度が生まれる。そうした態度、あるいは、現代風にいえば自然や環境の保護の振る舞いは、感情的、情緒的な、観念的なものでもなければ、醒めた科学的、合理的なものでもない。人間の生活、暮らしの中から生まれた知恵であり、文化である。
近年、わが国では、高度に機械化され、コンピュータという人工頭脳に制御された大工場での製品生産の対極にある、いわゆる「ものづくり」が脚光を浴びてきている。これも原材料を自らの手で確かめながら、その特性にあわせてものを創造するという、人間と材料のやり取りを大切にするという思考にたつものであろう。そうしたありかたは、近現代の中で変化し、分極化していく。このような観点から、ラートカウは、ドイツを中心とするドイツ語圏諸国だけでなく、ヨーロッパやアメリカ、さらには、日本、中国、インド、ネパールにまで視野を広げて、人間と木材、そして森との相互の交わり、つきあいの歴史を丹念にたどっている。
歴史家であるラートカウの目は、彼自身も本書の中でたびたび語っているが、林業史家の眼差しとは違う。訳者は、かつてドイツ林学の大家カール・ハーゼルの Forstgeschichte(邦題『森が語るドイツの歴史』)を邦訳したが、同書も、森という自然と、これとの人間のかかわり、すなわち文化に焦点をあてたものであった。再び本書で使われているドイツ語の語彙の話に戻ると、ラートカウは、森に関する人間の営みについてヴァルトヴィルトシャフト(Waldwirtschaft)という語と、「林業」と訳されるフォルストヴィルトシャフト(Forstwirtschaft)という語を使い分けている。ハーゼルもこの二つを使い分けているが、ハーゼルにあっては、Waldwirtschaft は林業の経営形態ないしは施業を意味するものであり、林業の範疇の中にある概念である。ちなみに、2007年に出された原著の初版の英訳本(訳者パトリック・カミーラー、2012年)においても、この Waldwirtschaft という語と Forstwirtschaft という語は、同じ forestry(林業)という英単語で訳されている。
しかし、ラートカウにあっては、煎じ詰めれば木を育て木材を生産することを主として意味する林業だけではなく、農業的な森の利用のありかた、製革のためのタンニン採取や、ガラスづくりや石けんづくりのための木灰、造船用の木タール・ピッチなどをとるための生業もみな Waldwirtschaft の語概念に包含されている。つまり、木材、それも、単なる建築材などの用材生産だけでなく、木質系の原材料を含めた様々な森の産物を用いた人間の営み、生業すべてが Waldwirtschaft であり、このような視点から木材と森の歴史を観ることによって、林業の側から描かれた歴史とは違った、人間の暮らしそのものについての実に広範な、そして、きわめて興味深い、数多くの歴史的事実をわれわれは知ることとなる。
ラートカウは、木材と人間の歴史は、戦争や政変などのいわゆる歴史的大事件とは違って、ついつい見過ごされてしまうような日常の出来事といった趣旨を書いているが、われわれは、本書を読み進むにつれ、そのありふれた出来事が実はスリリングなものであり、その中に人間の暮らし、文化の本質が隠されていることを知る。そして、その本質とは、先に述べた有限である原材料を大切にするつきあいという文化的伝統を人間は長くもっていたこと、それは、人間の日々の暮らしの中で育まれた知恵であり、科学や政治、思想などに主導、指図されたものではなかったことといえるであろう。
ラートカウは日本を「真の意味での木の文化」と称賛するが、われわれ日本人が石の文化として思いこんでいるドイツ・ヨーロッパ諸国にも木造建築やそれにまつわる木組みの建築技法など木の文化の豊かな歴史と伝統があり、現代に引き継がれていることについて、われわれはほとんど知らない。本書を読むと、木材や森がいかにドイツ語圏諸国をはじめとするヨーロッパの多くの国で、人々の暮らしの中で様々な形で活き活きと息づいてきたのかがわかる。いや、それだけではない。本書にふんだんに引用されている多くのドイツ文学作品や芸術、思索の言葉は、木材や森と人間との交流が、彼らの精神文化の母胎であることを雄弁に物語る。
たしかに、ラートカウが指摘するように世界的な視野で木材の利用を総覧した本は、われわれの手許にはなかった。それらの歴史的事実を豊富な図版を交えて余すところなく描きだした本書は、木材や森や環境保護の関係者はもとより一般の読者の知的興味をかき立てるだけではない。われわれは、本書を通じて、その「木の文化」史が、母体となる森と人間の文化史と表裏一体となっていることを知る。われわれは、日本の「木の文化」を誇る前に、世界各地の木材の利用と森の盛衰との相互関係の歴史を理解し、わが身を振り返る必要がある。
さて、ロマン派をテーマの一つとする訳者はドイツ文学を研究する者の末席を汚していると勝手に思いこんでいるが、文学や文化に興味がある読者でなくても、本書の様々な引用事例は、読んでいて楽しい。別な言葉でいえば、木材や森に日頃親しんでいない読者でも、本書で描かれた木材や森にまつわる様々な人間ドラマを読み進めるうちに、実は木材や森、さらには木材業や林業についてかなり知るようになる。近年、教育ならぬ食育や木育が注目されている。ちなみに、2006(平成18)年に閣議決定された森林・林業基本計画では、「木材に対する親しみや木の文化への理解を深めるため、材料としての木材の良さやその利用の意義を学ぶ」教育活動を木育と呼んでいるが、だとすれば、本書は木育にうってつけの読み物となろう。いずれにしても、本書を、木材や森、林業、さらには環境問題の専門家や、ドイツ史研究者だけではなく、一般の多くの読者に是非お読みいただきたいと思う所以である。
ところで、ラートカウは、林業史に関する研究は豊富にあるが、為政者の公文書に多くを依存している林業史は「森で実際に何が起きていたのか」について語っていない、「林業史の記述は、昔の森の状況を、森を木材供給者として理解するだけの現代の林業の視点だけから評価しがちである」と述べている。また、本書では日本の木の文化の歴史が高く評価されていて、いささか面映ゆいが、しかし、よく読むと、その高い評価は、日本の林政の所産に向けられたものではなく、民衆の知恵に向けられたもので、辛辣なレトリックとなっている。
ドイツはもとより日本も含めて世界各地で鳴り響いた木材不足を嘆く声、あるいは、為政者の公文書を文字通り読むべきではない、というラートカウの言葉は、林業史に馴染んだ者にとっては刮目するような歴史観であり、至言である。訳者は、かつてわが国の林野行政に長く携わった経験があるが、そうした警句に心当たりがなくはない。木材や森と人間との関係を、人間社会における力関係、権力の作用という観点から読み解くラートカウ史観は、非常に説得力がある。
ところで、「歴史」を意味するドイツ語のゲシヒテ(Geschichte)という語には、「物語」という意味もある。歴史の叙述が出来事を羅列する年代記から、過去を物語として再構成する文字通り「歴史」(ゲシヒテ)に変わったのは、ノヴァーリスやシュレーゲルらが活躍したロマン主義においてといわれる。また、ドイツ文学にはロマン派のシュライヤーマッハーから、ディルタイを経てガーダマーやイーザーなどに至るテクスト解釈の長い伝統がある。ある時代のある出来事が何を意味するのか。その出来事を記録した文書史料は、いかなる意図のもとに書かれたのか、その文書を鵜呑みにしてよいのか。テクストの行間から透けて見える真実は、いかなるものか。その歴史的事実は、現在の読み手の中でどう再構成されうるのか。それは読み手に何を語りかけているのか。
本書を訳しながら、改めてそうしたドイツ精神史の思索の長い伝統を感じた。しかしまた、そうした思索の伝統に裏打ちされたものであればこそ、読者もまた、支配権力と民衆、自然である森、その恵みである木材という歴史の大きな要素同士のかかわり合いを、生活や地域・国民経済の原材料である木材を切り口に見事にえぐり出したラートカウの史観を堪能できるのではないだろうか。
最後になるが、本書は、数千年にわたり営まれてきた各種の木材や森の利用の詳しい記述の後に、技術革新による集成材、あるいは原発や化石燃料に代わる「再生産可能なエネルギー」としての木材利用などに代表される木材のルネッサンス、木材や森を巡るエコロジーとエコノミーの齟齬に揺れる現代社会の実相など優れて今日的な問題を取り上げる。
歴史を踏まえて木材に「エコロジーとエコノミーを繋ぐ」大きな可能性を見る著者は、気候変動とエネルギー危機の現状のもとで木材・森林を媒体に林業・木材産業と自然保護関係者との新たな「大きな緑の連合」の成立に期待を寄せる。また、ラートカウは、世界各地の木材と森の歴史を踏まえて、「緑の連合」の原動力として、国家よりもむしろ集落など地域社会を強調する。本書の語るそれらの現状分析や提言は、今まさに同じ問題に直面し、出口を探し求める日本にとって有益な示唆となるものと考える。
(後略)