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ゲスト オブ ヒロヒト 新潟俘虜収容所1941〜1945

【内容紹介】本書「訳者あとがき」より


 本書は著者が子どもや孫たちのために、あるいは親しい友人たちにだけ自分の経験を語り継いでおこうと考えて記録したものが、ふとしたきっかけでカナダで出版され高い評価を受けた。それから何年かして、この日本語版が出ることになったわけを簡単に説明しておかなければならない。自国における出版の経緯は、著者の「序言」その他で述べられているが、日本語版は偶然の重なりから本書にかかわった人びとの熱意と協力で上梓の運びとなったものである。
 俘虜生活から解放されて祖国へ戻るとき、おぼろげに消えていく日本の土地をじっと眺めながら「決して戻ってくることはないだろう」(アイ・シャル・ネバー・リターン)とつぶやいた著者が、40年も経ってから、その気持ちを捨てて日本を再訪することになるのは次女マリーさんの日本旅行が原因だった。じつをいうと、訳者が本書の翻訳に取り組むきっかけを提供したのもマリーさんなのである。彼女は今も中国で留学生活を送っている芸術家だが、上海音楽院で勉強しているときルームメイトの広岡今日子(現姓飛田)さんに本書を贈呈したことからすべてが始まる。その一冊が今日子さんから父上の広岡敬一氏(作家)の手を経て訳者にたどり着いたというわけだ。訳者は一読して著者の考え方に共感を覚え、臆することなくバンクーバーに電話を入れ、日本語への翻訳を願い出て快諾を得た。
 著者は「戦時の思い出のなかに懐かしさを覚えるような気持ちはまったくない」と言い切っている。また「この本が、残虐行為に対する恨みつらみを綿々と書き綴るものになるのを意識的に避けたつもりだ。私が最終的にめざすのは、敵意とか敵対意識のようなものの残滓を引っかき回してしまうことである」とも言っている。われわれには原爆が象徴する被害者としての立場があることには言をまたないが、一方では「加害者」であった歴史的事実を忘れてはならないだろう。マリーさんが新潟市役所で俘虜収容所があった場所を訪ねたとき、市の役人は「新潟に俘虜収容所が存在したことはない」と言って取り合わなかった。これが、著者の日本再訪を決意するきっかけとなるわけだが、彼は市長に「古い敵対関係を暴き出す気はさらさらないが、過去はそう簡単に忘れ去られるべきではない」と書き送る。戦後初めて首相が靖国神社に公式参拝したとき、中国の新聞にそれを酷評する記事が出たことを知り、著者は思う「私には中国の態度は理解できない。自分たちの国のために死んでいった兵士に敬意を払うのは、ファシズムのイデオロギーを容認することと関係はない。それより、尊い若人の生命を無駄に失わせたという、許せざる行為にもっと注意を払うべきではないだろうか」と。著者が、戦争の実態と人間の尊厳を客観的にとらえ、「ここに書かれているような事実も原爆も、決して再発してはならないものだと思う」と言っている点に注目しておきたい。
 俘虜収容所生活の終わりのほうにカトウ・テツタロウ中尉に関するエピソードが語られているが、この人物は「私は貝になりたい」で有名になった加藤哲太郎氏である。そこには、われわれが書物やテレビを通して知っている、悲劇の主人公としての同氏のイメージとはかなりかけ離れた人物像が描かれている。俘虜側から見た加藤哲太郎という人物の一側面として興味深いものがあった。それにしても、精神に異常をきたしていた俘虜を(規則にしたがったまでとはいえ)、あのように残酷な方法で処刑する必要があったのかという素朴な疑問は残る。(注・加藤中尉の供述書では、彼自身が心臓に銃剣を二度刺し込み、何人かの部下がそれにならったとある。かたや著者は、俘虜はカトウに頭を切られたと述べているが、これは伝聞によるものであろう。)
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