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スパルタの秋 【内容紹介】本書「あとがき」より | |||
トロイ戦争の時代は「英雄の時代」と呼ばれている。紀元前7世紀に完成されたホメロスの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」はトロイ戦争をめぐるそうした「英雄」たちの活躍を描いた世界最古のいわば軍記物語的叙事詩である。そして現在でもなお、特にヨーロッパにおいては、不滅の芸術とされている。 私自身も何の疑いもはさまず、この詩をそのまま受け取り、その良しとするものを、良しとし、悪しとするものを悪しとしてきた。たとえば、アキレウスやヘクトールを好ましい英雄と思っていたし、凱旋のその夜、妻に殺されたアガメムノンを哀れと思った。夫を殺したクリュタイムネーストラや、夫を捨てたヘレネーを悪い女と見、トロイ戦争はヘレネーが原因であり、ギリシャ側に、より正当性があると思い込んでいた。 私がとんでもない思い違いをしていたのに気がついたのは、トロイ戦争について、少し歴史的に調べるようになってからだった。 この戦争が終わったのは、およそ紀元前1200年。ところがこの勝利した国ギリシャと、当時世界で最高の文化の一つであったアカイア人たちのミューケナイ文化が、紀元前1120年頃には全く衰えはて、紀元前1000年には跡も残さず滅びてしまい、そしてその原因がトロイ戦争だったらしいと知ったときだった。 巨大な国が、もうひとつの巨大な国との戦いに勝ったのに、勝ったとたんにこの国は衰えはじめ、80年ばかりのうちに滅びてしまう。そして、新しい勢力ドーリア人にとってかわられる。おそらく他の巨大な国を滅ぼしたような原因がすでにこの国に内在していたのではなかったろうか。腐敗、堕落、分裂、傲り等々。そして起こした戦いが、大きすぎ、長すぎた。 少し考えてみれば、誰にでもすぐわかることではないだろうか。10年も続くこの戦いの原因が、単なる一女性の不倫などではなかったろうということが。詩の上、歌の上、あるいは5世紀ほど後に、さかんに書かれた悲劇の上では、その方がロマンティックで、美しいと感じられるかもしれないが、実際は、もっと、どろどろとした欲望が渦巻いている、汚い世界だったのではなかったろうか。貿易上の抗争とか、その頃のトロイの山々を覆っていた見事な森林資源に対する羨望だとか、ダーダネルスから黒海へ至る海のルートへの欲望とか。 また一女性を争うにしては、ギリシャ人たちの戦いの規模が大きすぎた。もともとヘレネーはスパルタのメネラオスの妻だから、戦争に勝った場合でも、実際妻を取り返すという利益を得るのは、メネラオス一人なわけである。ところがギリシャ側は1200艘の船、10万人の兵士を動員している。この戦争にギリシャ側がいかに総力をあげたかよくわかる。何のためだろう。そしてトロイに遠征し、そこにとどまること10年。ギリシャ中に疲弊が広がっていく有様が目に見えるようだ。おそらく当時の、ギリシャは太平洋戦争末期の日本の荒廃に似た様相を呈していたのではなかろうか。 伝承は言う。トロイ戦争に勝利した後、領主たちは戦利品と捕虜を、山のように船に積んで、意気揚々と故郷へ帰ってくる。ところがなぜか故郷は彼らを受け入れない。ティリンスの領主ディオメーデースの妻アイギアレイアは、城門を堅く閉ざして、夫であるディオメーデースを一歩も城へ入れない。クレタ島の住民は、帰ってきた領主イードメネウスに、船を岸へつけることすら許さない。総大将アガメムノンは、帰ってきたその夜、妻のクリュタイムネーストラに殺される。サラミス島のテウクロスも、父親に追われて、シリアに逃れる。つまり故郷の領民や、妻や、親族たちは、トロイ戦争を「よい戦争」とは思わなくなってしまっていたのだ。そしてこの戦争を起こし、10年間、これを継続した領主たちを、愚かな支配者として、見限っていたのであろう。そしてそう感じさせるだけの実害が、すでにふるさとの町や村に、色濃くあらわれていたのではなかったろうか。 サマセット・モームは、ホメロスの叙事詩を原文で読んで、言葉もないほど感動したといっている。残念ながら、私はギリシャ語の詩の美しさを鑑賞することはできない。それどころか、空襲や、原爆や、疎開や、家族離散や、飢えや、みじめさや、屈辱感や、そうしたことをいやというほど体験した私たち日本の女にとっては、トロイ戦争は、愚かな「英雄たち」の愚かな戦いとしかうつらないだろう。たとえ原文で読んだとしても。 その上、この戦いによって、数限りもない女や子どもが殺されたり、悲惨な運命に突き落とされたことを考えれば、他の多くの戦いと同様、これを「英雄たち」の輝かしい武勲の場などとはとても思えないのだ。トロイの人びとはいうにおよばず、ギリシャの若者たちもまた、戦場に散り、海に溺れたはずだ。そしてその母や、妻や、子どもたちにも、滅びゆく国で男手なしに生きていくという残酷な運命が与えられたのだ。 イーリアスの主題となっているアキレウスの怒りは、見事に描写されているし、ヘクトールとアンドロマケーの悲しみも、プリアモスの嘆きも心をうつが、私はどうしてもこの「英雄たち」の傲慢な愚かしさ、押し隠された醜い欲望、戦争への潜在的な嗜好と情熱などから目をそむけることができない。 そして、残念ながら、この愚かしさや、欲望や、情熱が、現在も「まだ」というより、幾層倍にもなって、この世界をとらえ、ますますその醜さと残酷さの度を増しているように私には思われる。かつて戦争は、戦場で、兵が戦うものであった。一ノ谷も、川中島も、点のような小さな土地だ。イギリスの命運を決定したウィリアム征服王のヘイスティングズの古戦場も、後楽園球場の四分の一ほどの広さで、今は尼僧院の庭の一隅を占めているだけだ。ところが20世紀の今日では、戦争は戦場で、兵士によって勝敗が決せられるものではなくなった。お互いの相手国全土が戦場であり、相手方の非戦闘員、つまり女や子どもを、より残酷な方法で、より大量に殺戮することが、「戦争」になってしまったのだ。支配者にとっては、敵の女や子どもはもとより、自国の若者でさえ、勝利をもたらす手段でしかなくなった。いったいこれは文明の進歩だろうか。 それだけに、この世界最古の軍記物語であり、ヨーロッパ世界の原点といってもよい古典にあらわれている「英雄たち」の、ある意味では原罪といってもよいような、戦争肯定、戦争礼賛の思想に、私は反撥せずにはいられなかった。 私がクリュタイムネーストラ、アンドロマケー、ヘレネーなどを主人公にしたのは、女の目にはこの戦争がどんな風に見えたか描いてみたかったからである。 | |||
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