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丹波ささやまの大学

【内容紹介】本書「まえがき」より


 私は前に「牧人日記」と「北の原野で馬を飼う」で、終戦直後台湾から引き揚げて、すぐに北海道根室の国野付群別海村で牧場を経営した頃の出来事をできるだけ素直に書き綴ってみた。そしてなおその後の私と家族の生き方を聞きたがる友人たちが多いのとたまたま私が勤めたのが大学であったこともあって、昭和20年代末から大学紛争へと高まりをみせはじめた頃までの一時期、私の個人歴でいえば、県立兵庫農科大学から国立神戸大学勤務時代になるのだが、その時代の大学の教師と学生の生きざまを書き留めておくことに意欲をもつようになった。それが本書である。
 私は牧場とは名ばかりの荒野で、ぼろ家でぼろ柔道着に破れゴム長靴を荒縄で縛りつけた姿で馬を乗り回していたのだが、心の奥底でツルゲーネフの「猟人日記」を気取っているドンキホーテもどきの自分が滑稽であった。昭和21年から28年までの最も日本の苦しい時期に政府の援助なしに、私はようやく炭焼きで生計がどうにか保てるようになり、家畜は自然増をまってなんとか牧場らしさを表面にだせる体制ができかけたのだが、子どもの教育という段階にたちいたったとき、片道8キロ、往復16キロという通学距離を毎日馬車で送り迎えするという難問題にぶちあたったのである。
 上の子が五つ下が三つであった。いまはない厚床と中標津を結ぶ中標津線の始発の次の奥行臼という薪と炭を積み込むのが主目的の駅から10キロを隔てたわが牧場からたまに連れてきた長女の絵里が、初めて煙と蒸気を撒き散らしながら突進してくる汽車をみたときの表情はまさに恐怖の絶頂そのものであった。子どもは牧場から出たことがなかった。家族と家畜と野生のキタキツネにタンチョウぐらいしか付き合いがなかった。こんな子どもたちが人間社会で将来生活が可能なのであろうか。ふとそんな不安のようなものが私の心をよぎったのを覚えている。
 私は意を決した。ところがまた意外なことに、それはいまでも心に残る妻の反対があった。たとえ子どもが学校に行けなくても、家庭でこの牧場を建設していこうというのである。妻からみると苦節6年ようようにしてなんとか自分たちの手で、緩慢な歩みではあるが、進みつつある牧場づくりを打ちきることは忍びがたかったし、夫婦一体となって仕事に打ち込めたいままでの生きがいがこれで断たれるのか、これから一般俸給取りの生活に入り、夫と完全に分離され、単なる主婦業になってしまう不安に悩む妻の気持ちは理解できたが、私の両親の意見もあって、丹波篠山行きの準備を進めたのである。
 その妻の命は篠山の地で尽きた。3人の女の子はいずれも篠山小学校をでた。したがって彼女たちにとってこの町には母や農大の学生たち、そしてそれぞれの友達との思い出が色濃く残っているのである。まだ車社会が形成されていなかった頃の田舎大学の教師と学生の物語である。
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