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ソ満国境15歳の夏 【内容紹介】本書「はじめに」より | |||
『ソ満国境最前線の「東寧報国農場」に中学生を派遣する、派遣校として新京一中3年生130名をあてる』という決定は、どこでどういうふうに行われたのであろうか。
これは、私が新京に帰りついて自分の生還を自覚したとき以来ずっと抱きつづけてきた疑問である。そしてそれは、いまだに解明されていない。 この問題に漠然とたちふさがるのは「官僚の無責任性」という巨大な壁である。 東洋平和、国体護持、忠君愛国、滅私奉公などというもっともらしい大義名分のもとに、陸軍軍人の官僚システムが、統帥権をふりかざして国家を統治した。その実、一皮むけば自分に都合の悪い事実は発表をのばし、どんな失敗に対してもそれをもたらした決定の責任を回避して、自己の属するセクションの防衛と自分の保身、立身出世をはかるという習性がビルト・インされていた。つまり問えば問うほど、「だれもまちがった決定はしていない、責任を問われるような決定はしていない」という答えが返ってくるシステムである。 事態はますます悪くなっているのではないかという素朴な庶民の実感に対し「負けてはいない。弱気になることは事態を悪くするもとだ、必勝の信念をもて」といいつづけていた。敗戦はだれもが想像できなかったような惨憺たる国富、国益の喪失をもたらした。 陸軍という官僚システムは消滅したけれども、しかし、わが国ではいまだになお「官僚の無責任性」が横行しているように思われてならない。官僚システムに国政をまかせっきりにすることがいかなる結果をもたらすのか、庶民にとっていかに危険なことであるのか、私はこのささやかな記録を書きつづけながらそのことをしきりに考えていた。 いまとなっては解明はむずかしいのかもしれないが、私は生還以来のこの疑問をあくまで追及していくつもりである。この記録を通して、統治者や指導者の情報公開、透明性、説明能力などがいかに大切なことであるかということを、述べてみたい。 本書の読者とともにこれを再確認することで、生まれ故郷を喪失してしまったひとりの少年の15歳の夏のささやかな体験記が、この国の歴史の中の一齣として、なにほどか読者に訴えることになれば幸いである。 | |||
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