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北の原野で馬を飼う 【内容紹介】本書「あとがき」より | |||
この本のあらましはかなり前にできあがっていたのであるが、いよいよ出版となると、内心忸怩たるものがあって、幾度か逡巡したものである。前に朝日出版社から出した「牧人日記」は全体が根室原野の秋空のように明るく、微笑のうちに筆が進んだ。それというのも独身時代の人と動物との話とか、仙人との出会いといったものであったからで、今回の場合は求婚から結婚、そして重い部分軽い部分が交叉しているからである。私の人生の中で特異な時代であった。 とくに結婚生活やお産の体験など赤裸々に記載し、愛の授業についても当時を回顧しながら書き綴った。そして妻スミ子の思い出が結晶していったのである。したがってこの本は「スミ子の思い出の記」といってもよいだろう。 スミ子は私が篠山の兵庫農科大学に赴任して、篠山の生活に馴染みだした後、心臓の発作によってわずか三時間半で他界してしまった。その最後の叫ぶように言った言葉「パパ! さようなら、さようなら」は私の耳に焼きついてはなれない。 原始的根室原野から田舎の代名詞といえる丹波の篠山にやって来た私たち家族の生活はすべてが珍しく、また古めかしい因習のなかに少しずつ馴染んでいくことから始まったのである。そして私には大学人として宿命的な学位の取得という、考えてもいなかった大業が課せられたのである。 しかし、平和な盆地の町、篠山、青山五万三千石の城下町の生活も長くは続かなかった。兵庫県の赤字財政のために大学のような余分に予算を食うものは真先に槍玉にあげられ、国立移管へと運動が進行し、昭和42年にはそれが実現して私は神戸大学の教官になってしまった。そして大学紛争の激しさが、やや下火になったころ私は名古屋大学へと移ったのである。 名古屋大学では11年間もの長い間農場長をしたが、27ヘクタールの農場と60頭ばかりの牛たちとのつき合いがつづいたのである。私が赴任した翌年に植えた農場本館前の桜並木は、今は18年ほどもたって毎年素晴らしい花を咲かせている。 その桜の花をみるとき、私はあの根室原野の牧場の巨大な桜が、そのひろげた樹冠の上層を淡紅色に染めて牧草地にたたずむ姿を思い出すのである。 この本を出版するにあたって私を逡巡させたもう一つは、先妻の思い出を公開するについて、私の家内の心を傷つけないかという危惧であった。私はこの出版に賛同してくれた家内に心から感謝している。 | |||
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