![]() | ドミニーク・ローク[著] 門脇 仁[訳] 2,400円+税 四六判並製 288頁 2025年5月刊行 ISBN978-4-8067-1685-3 花、果物、樹皮などから、職人技を駆使して栽培、収穫、蒸留され、 最大80種類もの異なるエッセンスを組み合わせた香水の世界。 よりすばらしい香水を作るための天然成分を見つけるべく、著者であるドミニーク・ロークは、 ブルガリア、ラオス、エルサルバドル、インドネシア、エジプトを経由して スペインのアンダルシアからソマリランドまでを旅しました。 彼は、インドネシアのパチョリからダマスクローズまで、 香水業界で貴重な原料について、その産地、文化的・歴史的重要性、 そして私たちがなぜそれらを愛しているかを、 自身の人生と仕事に関する思い出や考察を織り交ぜながら、文学的表現で美しく語ります。 また、香水業界は先祖伝来の伝統と技術で生き残ってきたこと、 また気候変動の脅威と闘う過程で命を危険にさらすことも多い生産者によって収穫された 植物から始まっている可能性があることなど、社会問題についても言及。 希少なエッセンシャルオイルの原料となる植物が どのように育ち、調達されているか、香りの謎を解き明かす1冊です。 |
ドミニーク・ローク(Dominique Roques)
スイスの香水メーカー、フィルメニッヒ(現・DSM フィルメニッヒ)の元調達責任者。
30年間にわたって約50カ国を訪ね歩き、150種以上におよぶ香水のエッセンスやエキスを調達。
2023年に自社バルサム・コンサルティングを設立し、香りの仕事を続ける一方、著述業にも力を入れている。
現在、パリ在住。
門脇 仁(かどわき・ひとし)
生態学史、フランスの森と林業、環境文化論を専門とする著述家、翻訳家(英・仏)、大学教員。
東京理科大、武蔵野大、東京電機大、インターナショナル・スクールオブビジネスで
環境学や外国語などを担当している一方、
都内のバイオテクノロジー専門学校で本書のテーマと関わる香粧品学の講義経験がある。
現在、全国で各種テーマの講演活動もおこなっている。
著書に『広葉樹の国フランス――「適地適木」から自然林業へ』(築地書館)、
『エコカルチャーから見た世界――思考・伝統・アートで読み解く』(ミネルヴァ書房)、
訳書に『樹盗――森は誰のものか』(築地書館)、『エコロジーの歴史』(緑風出版)などがある。
まえがき 世界の香り調達者たち
キリストの涙 アンダルシアのシスタス
香水の名作に使われるシスタスの神秘的な香り
古代エジプト人も重宝していたシスタスの樹脂
シスタスの生産を支えるジプシー伝統的な方法で行われるラブダナム樹脂の生産
金糸で刺?されたシスタスの花があしらわれる聖母像
青き豊饒 プロヴァンス高地のラベンダ
高級香水ブランドから引く手あまたの調香師ファブリス
ファブリスから手ほどきを受けたラベンダーの魅力
グラースが香水の都となるのをあと押ししたマノスクのラベンダー
ヴァロンソル高原でW本物Wのラベンダーを育てる若き農家
薔薇でたどる四世界 ペルシャ、インド、トルコ、モロッコのローズ
千年以上の歴史と文化の一部をなすペルシャのバラ
伝統が息づくインドの蒸留所
バラの庭園から垣間見えるトルコ人の決意
モロッコの南部アトラス山脈に咲き誇るダマ
スクローズ
シプカ峠の鳥たち ブルガリアンローズ
ブルガリアンローズの歴史と現状
ブルガリアンローズの再興を願う人との出会い
ブルガリアでの蒸留所経営は苦労の連続
バラ生産の過酷な現実――1キロの精油に必要な膨大な花と労働力
ブルガリアンローズ産業の復興へ
今も変わらない、バラの谷の風景
カラブリアの美女 レッジョ・ディ・カラブリアのベルガモット
香水業界に欠かせないベルガモットの故郷
18世紀のオーデコロンがきっかけとなったベルガモットの隆盛
伝統技法で品質を守り、地位を確立したカラブリアのベルガモット
世界的な注目を集めるカラブリアの生産者たち
カラブリアとシチリアをむすぶ未来に思いを馳せる
名人と白い花 グラースからエジプトまでのジャスミン
マスター調香師・ジャックとたどるジャスミンの道
香水においてジャスミンの地位を高めたグラース市
ジャスミンとともに歩んできたグラースの香水業
ナイルの水と太陽の恵みが育むエジプトのジャスミン
競争が激化するエジプトとインドのジャスミン産業
象と祝婚 インドのジャスミン
南インドの花の女王「サンバック・ジャスミン」
インドにおける花の抽出企業のトップとパートナーシップ
中国の花市場で知ったジャスミンの奥深さ
ジャスミンはマスター調香師・ジャックの創作の原点
パイオニアと3人の摘み手たち ラオスのベンゾイン
絶滅危機にあったベンゾインの保全に努めたフランシス
美しさと痛みが交錯するラオスの風景
ベンゾインの復興にかけたフランシスの挑戦
ベンゾイン採集の現場から見えた効率的なサプライチェーン
ベンゾイン産業の価値向上と森林保護への取り組み
樹皮の甘やかさ スリランカのシナモン
スパイスの島スリランカ
内戦、津波を乗り越えたラザンサの挑戦
樹皮の品質がシナモンの香りバランスを決める
憂鬱な熱帯の王女 マダガスカルバニラ
本物のバニラを作るバニラビーンズ
貧困を抱えながらも自然豊かで魅力的な国
貧困問題を背景に起こるバニラ産業の労働搾取
マダガスカルバニラを支える女性ジジ
価格の乱高下に翻弄される数十年
マダガスカルのバニラ産業に対する希望と憂い
香りを放つ黒い葉 インドネシアのパチョリ
IFEATの決定から始まったパチョリの物語
香水業界に欠かせないパチョリが抱える問題
パチョリの品質や収穫の安定を確保したペトルスの手法とは
著名な調香師オリヴィエが語るパチョリの魅力と難しさ
闇と光の大地 ハイチのベチバー
ベチバーオイル生産の指導者が語るハイチという国
パチョリと並び香水業界で呼び声の高いベチバー
香水業界の名士・ハリーとともにベチバー農園を視察
世界の香りをつなげるピエールの蒸留所
コルディエラの松明(たいまつ) エルサルバドルのペルーバルサム
有名香水を手がけるマリーがやみつきになる香り
バルサム採取の儀式と採取人の知恵
妥協のない品質管理と採取人たちの卓越した仕事
公正な報酬を支払うことが事業成功の鍵
生贄(いけにえ)の森 ギアナのローズウッド
象、セコイア、ローズウッドの乱獲
ギアナの森林開発とローズウッド伐採の実態
ローズウッド栽培の試みと課題
渡れない川 ベネズエラのトンカビーン
魅力とリスクが共存するトンカビーン
違法伐採の問題と森林保全への貢献
気候変動による影響と持続可能性
聖なる木 インドとオーストラリアのサンダルウッド
神話にも登場するサンダルウッド
インドにおけるサンダルウッドの独占と汚職
オーストラリアの小さな町カナナラで始まったサンダルウッド生産
20年後、世界のサンダルウッド中心地になることをめざして
王たちの木 バングラデシュのウード
中東の香水に欠かせないウードエッセンス
8世代にわたり大切に育てられてきたウードの原木
調香師アルベルトによるウードの香水への応用
シレットの森とアキラリアの物語
ムスラのウードエッセンスと香水の誕生
時が立ち止まる場所 ソマリランドのインセンス
旧約聖書にも登場するインセンスの深み
世界地図にない国ソマリランドの混乱と忍耐
張り詰めた空気が漂う、樹脂の輸出拠点ベルベラ港
アロマセラピーの流行でインセンスの需要が急増、乱伐が問題に
険しい山道の先にあったインセンスの木
あとがき 錬金術の旅
訳者あとがき
用語解説
香水はわれわれにとって、なじみぶかくもあり、ミステリアスでもある。
それはかすかな匂いの記憶や、子どもの頃のふとした思い出を呼び寄せる。おぼろげながらも、力強く。誰にでもあることだ。リラの花の残り香、エニシダの咲く小道、そして愛した人の匂い。それはすべての人に、生涯つきまとう。
私も幼い日の森での発見の思い出を、大事に取ってある。
5月のことだった。ランブイエの森で、背の高いオークの下生えをスズランがおおっていた。スズランはにぎわい豊かで、香ばしい空気が漂っていた。私ははっとし、母を思わせるその匂いにとまどった。
母はその小さな白い釣り鐘たちを讃えるぜいたくな香水、「ディオリッシモ」をつけていたからだ。香りのたわむれと、私たちの思い出との大切な近しさ。その小瓶をあけるとき、ひとつの組成物が何かを思い出させる力の不思議。香水ははじめ、身内の話で私たちの気持ちをほぐす。ついで香水自身のことを語り、私たちを魅惑するのだ。
「あげよう果実を、花を、葉を、枝を」
ヴェルレーヌのなじみ深いこの詩「グリーン」は、香水の天然素材の膨大なカタログを歌うようにひもといてくれる。カタログを完成させてみよう。根、樹皮、幹、苔、種子、つぼみ、果実、バルサム(植物から分泌される粘りけのある液体)、樹脂――あらゆるかたちをした植物の世界は、香水製造業を生みだした精油と抽出物の宝庫だ。19世紀に匂い分子の化学が知られるようになるまで、天然素材が3000年にわたって唯一の香水原料だった。高級品になってしまったが、いまもこうした香りを調香師たちはしっかりといとおしみ続けている。それは彼らの創作に、豊かさと複雑さをもたらしてきた。すでに作品としての香水になっているものもある。
その調合法は、私たちの肌のうえで蒸発するまでの数秒間に、いくつもの成分が織りなす物語を語り聞かせてくれる。化学成分研究室の物語。花々、香辛料、天然素材の樹脂の物語。蒸留あるいは抽出されると、この植物たちはエッセンシャルオイルや、アブソリュートや、レジノイドとなって、合成成分とともに香水を構成する。その香りの豊かさは、製品のブランドコミュニケーションでつねに強調され、本物の香水には欠かせない。
エッセンス、すなわち香りには、それぞれの歴史がある。それは土地と、農場と、土壌と、気候の出会いによって生まれたものだ。そこに住み着いた人々や、足を止めた人々の産物なのである。
かつてもいまも香料の生産には、さまざまな人々が手を貸している。香木、サイプレス、ウード、白檀(びゃくだん)(サンダルウッド)の伐採業者。野生の植物、ジュニパーベリー(杜松果)、シスタスやトンカビーンの小枝を摘む人々。樹液や樹脂、インセンス(乳香)、ベンゾイン、ペルーのバルサムの採集者。花、葉、根、バラ、ジャスミン、ベチバー、パチョリの栽培者。ミカン、ベルガモット、レモンの搾汁者。搬送業者と商人、アラビアの隊商の後継ぎたち。そしてインドと地中海をむすぶ航海者。最後に、蒸留者、ローズウォーターの熟練抽出者、17世紀の精油の錬金術師、現代の抽出者と化学者である。砂漠や森林で採集し、鍬やトラクターで耕し、秘密裡に、それでいて透明性を保ちながら取引し、製品の行く末を案じることなく、偉大な調香師からの訪問や、一流ブランドの農場の視察を受けたりする、雑多でまとまりのないコミュニティなのだ。
こういった多様性は、いつのまにか壮大で歴史的なコミュニティやタペストリーをかたちづくった。
タペストリーの糸はラベンダーを、バラを、お香を、私たちのもとへつれてきた。謎めいた輸送経路、移り変わりやすい原産地、保全され、駆逐され、失われ、そしてふたたび見いだされる伝統。香水メーカーはみな共通して、自然の香りに対する人間の揺るぎない情熱を培っている。マダガスカルの農家の女性がバニラの花に授粉するとき、繰り広げられるのは一種のマジックだ。彼女はその身ぶりを何千回と繰り返す。それによってさやが形成され、熟して集められ、抽出され、仕上げにバニラアブソリュートの小瓶のなかで、えもいわれぬ香りを生きることになる。
この本は、香水の源を求めて放浪した30年間の記録だ。私は化学者でも植物学者でもない。森林管理を学んだあとで香水業界へ飛び込み、樹木や草花への嗜好を飽きもせずに追究してきた。この旅をはじめたのは趣味と好奇心からだったが、やがてそれは情熱になり、30年前から香水業界のため数十の香りの素を研究し、発見し、買い取り、ときには製造もすることに私は身を捧げてきた。バラやパチョリの畑、ベネズエラの森、ラオスの村落で、私は香りの地の住人たちから匂いについて教わったものだった。彼らは私に、香りの小瓶をあけるとき、エッセンスやエキスが聴かせる物語に耳を傾けろと教えてくれた。こうして私はいまでいう「調達担当者(ソーサー)」となったのである。
いま私は、フレグランスとアロマの創作を専門とする会社で、約50カ国から150種を超える天然素材のエッセンスやエキスを供給する責任を担っている。私の役割は、その量と品質を確保することだけではない。調香師の「パレット」を豊かにするための新しい原料も探すことだ。香水の業界編成のなかで、私は花畑から香水瓶まで延々とつながるサプライチェーンの最初のつなぎ役である。
この物語の最高の演じ手である香水ブランドは、新製品のため、いくつもの調合会社の調香師、つまりは「鼻(ネ)」を探すため、そして「ジュース」と呼ばれる複雑で門外不出の化学組成の創造者を見いだすために、しのぎを削っている。才能と強い個性の集大成のような調香師の同業者団体は、もっとも有名なブランドの新しい香りをたえまなく創りだす。そして彼らの仕事のために、私は自分の経験を差しだすのだ。
私はランド県の森の中央部にある家族経営の小さな会社に勤めている。すぐれた香り産品の生産国に赴き、蒸留や抽出のユニット設立に参加することから旅をはじめた。1980年代のパイオニアであるその会社は、天然抽出物を生みだすため、製造地を原料供給地に移転するという戦略をとった。スペイン、モロッコ、ブルガリア、トルコ、マダガスカル――どこに行っても肝心なのは、機器の設置、収穫と栽培の組織化、生産チームだった。私は歴史を担った場所や、ときには滅びゆく危機にある伝統的な営みをそこに見いだし、奥ぶかい人間関係を築いてきた。
わが社は香水とアロマの製造でもっとも重要な世界的グループに属するスイス企業で、私は調達担当である。調香師が利用できる天然素材のカタログを提供し、充実させるため、香水業界のあらゆる職種とつながり、協力者のネットワーク構築につとめてきた。香りに対する私の情熱は、こうした出会いを通してできあがったものだ。
製品の地理的ひろがりのおかげで、調達者は社会、経済、政治の混沌とした現実と向き合うことになる。私はよく、サイクロンや干ばつの危険にひとりさらされたり、ときには政府から見棄てられた地域の住民と力を合わせたりしてきた。かなり早い時期に、こうした人たちの境遇や、将来におけるこの業界の役割と責任に気づいた。それはいまでも私の原動力であり、私がこの職業をどう実践するかの手引きになっている。
本書は、ソマリランドの山々にある香木をめざした最近の旅の途中で着想した。私に同行した収穫者が、ちょうどその木の幹に切り込みを入れたところだった。こまかな乳白色の雫が、そこからしたたりはじめていた。その瞬間、あふれだした樹液のうっとりさせる匂いとともに、風が私のもとに運んできた。3000年以上途絶えることのなかった自然の香りの収穫という、とてつもない歴史の継承に立ち会っている感覚を――。その新しい樹液を香ってみると、私は何年もまえの、アンダルシアのシスタス畑での初仕事の記憶へとつれ戻された。そして突然気づいたのだ。シスタス・ラブダナムからインセンスまで、私は30年余りのあいだに、30世紀以上の歴史の継承者たちと出逢う機会を手に入れてきたのだと。そこで私の書きたいことがはっきりとわかった。それは時を超えた香水素材への道のり、いまも香水に身を捧げる人々の一生、その知識と伝統のひろがり、香りを生みだす場所の美しさ、その行く末のはかなさである。
物語の一つひとつの足どりはみな違っていて、それぞれにユニークだ。しかしすべてに共通するのは、私たちを魅了する香水のなかに、人間の営みの成果があることだ。ブルガリアンローズの谷間で私が学んだことが、それをもっともよくあらわしている。
「1キログラムのバラのエッセンスを生産するには、100万本のバラをその手で摘まなければならない――」
私は世界中の香り調達者たちへのオマージュとしてこの本を書いた。
本書はDominique Roques の最初の著書'Cueilleur d'essences――aux sources des parfums du monde'(2022)の邦訳である。原題を直訳すれば、『香りの採集者――世界の香水の源へ』となる。
著者ロークは、スイスのジュネーブに本社のある香粧品企業で、30年にわたり香水原料の調達責任者をしてきた。香りの源境を求めて世界中をめぐり歩いてきた彼が、そのたぐいまれな職業人生をこの手記にまとめている。
調達というと、一般には買いつけのイメージが強いだろう。だが彼の仕事は、生産地や品種の選定に始まり、農村での栽培や採集、蒸留・抽出所での品質管理をへて、テロや強奪のリスクと切り離せない搬出作業にまでおよぶ。さらに香水の創作現場では、調香師たちと向き合って新しいフォーミュラやアコードについて語り合う。そうしたすべての営みが、ひと瓶の香水という「物語」を紡いでいくことになる。
野趣に富み、多彩でエレガントな芳香植物の魅力。加えて一人ひとりの個性的な担い手たちの探求心、創造性、起業家精神、モラル。そして何より彼らの嗅覚が、舞台も主役も次々と移り変わる18のエピソードに結晶している。
焼け跡のラオスへと単身で乗り込み、絶滅危惧種だったベンゾインを育て、住民の生活向上とインフラ整備に人生を捧げた社会起業家のフランシスが登場する。虐殺事件後のルワンダで、大震災後のハイチで、それぞれパチョリとベチバーの栽培による復興を精力的に後押しした、香具師のように神出鬼没なピエールもいる。そんな彼らのロールプレイを効果的に引き立てているのが、本書の真の主役であるローク自身の言葉だ。
突きつめれば数字でも図式でもあらわせない香りの世界をもっとも確実に伝達できるものとして、ロークは調香師たちから学んだという言葉を選ぶ。「刈られた草」、「塩漬けの果実の皮」、「新しい革の匂い」などのテクニカルな語彙である。野生の美学ともいうべきそのアプローチが精緻な文体や筆致にも活かされ、物語を語り進めるうえでかけがえのない表現基盤となっている。
フランス語版の刊行以来、世界の多くの国でこの本が翻訳され、さまざまなジャンルで反響を呼んできたのも、こうした登場人物たちの営みを余すところなく、誠実に伝えようとする著者の表現力に負うところが大きいだろう。それをここでもう一度拾い上げるような不粋は避けるかわりに、しめくくりとして訳者なりに気づいた点を以下に補足しておきたい。
ロークにとって香りは官能刺激にとどまらず、自然や生命の本質をあらわしている。本質(エサンス)というフランス語に「香気」や「香水」という意味が加わったのは、蒸留器が普及したルネサンス以降のこととされている。この本にもシスタス、ベルガモット、ラベンダーといった数々の植物から「エッセンシャル」オイルを抽出する場面が描かれているが、そこで引き出されるのは個々の自然物に宿るエッセンスであり、作業にたずさわる人物たちの内奥にほとばしる「生気」や「エスプリ」である。
サスティナビリティ、フェアトレード、エシカルといった現代の調達ボトムラインも、さまざまな社会の質的向上に貢献しようとする著者の姿勢に収斂されて行く。たとえば最初のエピソードで、彼は現地の働く女性に「どうせ私たちから安く買い叩くんだから」と茶化されたり、「いくつかのブランド名で人を煙に巻き、フランス人であることで得られる名声を引き延ばし、長続きさせようとしていた」などと告白したりしているわけだが、最終章では治安の不安定な紛争地域に身を置き、製品のトレーサビリティを現地コレクターとともに憂慮している。また一見タブーとも思える「私の木」という一人称所有格を堂々と使って、自然そのものに価値を置く「ネイチャーポジティブ」の未来も見通している。こうした倫理観やセンシティビティの変遷も、この本の見どころのひとつである。
そもそもこのようなロークの感性は、米国カリフォルニア州でレッドウッド(セコイア)原生林の管理をしていた父親との絆を通して培われた。父親はフランスに初めてチェーンソーを導入した伐採業者だった。ローク自身も森林管理の仕事からキャリアをスタートさせている。じつはこれがもっとも太い幹であり、本書の扉辞「木々への道。それを教えてくれた父へ」にあらかじめ示唆されている文脈でもある。
私事になるが、レッドウッドの保全というテーマは前訳書『樹盗――森は誰のものか』(リンジー・ブルゴン著、築地書館、2023年)の主題とも一致する。初めてロークに書き送ったメッセージで、私はそんな経緯を「幸福な偶然(セレンディピティ)」と呼び、樹木を通じた彼の親子愛にもっとも感動したと伝えた。すると彼の返信には、画家のジョルジュ・ルオーがシャルトル大聖堂で自作のステンドグラスを完成させたとき、工事にあたっていた職人たちに投げかけた言葉とおなじメッセージが書かれていた。
「理解してくれましたね」
ドミニーク・ロークは現在パリに住み、著作活動も続けている。
(後略)