| 田中淳夫[著] 1,800円+税 四六判並製 228頁 2018年6月刊行 ISBN978-4-8067-1565-8 神の遣い? 畑や森の迷惑者? 赤信号は止まって待つ? 鹿せんべいをもらうとお辞儀する? シカは人間の暮らしや信仰にどう関わり、どのような距離感でお互いに暮らしてきたのか。 1000年を超えるヒトとシカの関わりの歴史を紐解き、 神鹿とあがめられた時代から、奈良公園をはじめ全国各地で見られるシカとの共存、 頻発する林業や農業への獣害とその対策、ジビエや漢方薬としての利用など、 野生動物との共生をユニークな視点で解説する。 |
田中淳夫(たなか・あつお)
1959年生まれ。奈良県在住。
静岡大学農学部林学科卒業後、出版社、新聞社等に勤務の後、現在はフリーランスの森林ジャーナリスト。
森林、林業、山村問題などのほか、歴史や民俗をテーマに執筆活動を行う。
著作に 『イノシシと人間――共に生きる』(共著、古今書院)、『森を歩く──森林セラピーへのいざない』(角川SSC新書)、『森林異変──日本の林業に未来はあるか』 『森と日本人の1500年』(以上、平凡社新書)、『日本人が知っておきたい森林の新常識』 『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(以上、洋泉社)、 『ゴルフ場に自然はあるか?──つくられた「里山」の真実』(電子書籍、ごきげんビジネス出版)、『樹木葬という選択──緑の埋葬で森になる』(築地書館)、『森は怪しいワンダーランド』(新泉社)など多数。
はじめに オランウータンからナラシカまで
第1章 奈良のシカの本当の姿
最大の観光資源ナラシカ
鹿せんべいの深い世界
現代のナラシカ伝説
第2章 ナラシカを支える人々
鹿救助隊が行く!
鹿苑はナラシカの病院と収容所
シカ相談室と鹿サポーターズクラブ
陰の仕掛け人・奈良公園室
第3章 ナラシカの誕生と苦難
神鹿の誕生──春日大社への旅
重罪だった神鹿殺し
奈良奉行と角切り行事
ナラシカをすき焼きにした知事
春日大社と神鹿譲渡事件
第4章 シカが獣害の主役になるまで
シカの増え方はシカ算
シカは飼育しやすい性格?
昔から大変だった獣害
国がシカを保護した時代
第5章 間違いだらけの獣害対策
シカが増えた三つの仮説
野生動物が増えた最大の理由
有害駆除に向かない猟友会
獣害対策は「防護」と「予防」にあり
ジビエが獣害対策にならない理由
第6章 悪戦苦闘のナラシカづきあい
戦後のナラシカと愛護会
ナラシカは誰のものか裁判
世界遺産・春日山原始林の変貌
天然記念物指定方法への批判
ナラシカ管理計画の始動
第7章 神鹿と獣害の狭間で
神鹿になりそこねた宮島のシカ
もう一つのナラシカ・大台ヶ原
人馴れする野生動物たち
栄養失調のナラシカ
ナラシカと森の本当の姿
おわりに 人と動物が共生するということ
お世話になった方々および参考文献
本書巻末に収載いたしました参考文献で、以下の雑誌・紀要の掲載が漏れておりました。
お詫びして、追加訂正いたします。※2018年7月26日現在
第1刷
『環境社会学研究』7(2001)保護獣による農業被害への対応――「奈良のシカ」の事例 渡辺伸一 環境社会学会
『奈良教育大学紀要 人文・社会科学』61(1)(2012)〈半野生〉動物の規定と捕獲をめぐる問題史――なぜ「奈良のシカ」の規定は二つあるのか? 渡辺伸一 奈良教育大学
「奈良のシカ」について記そうと思う。
これは奈良県に生息するシカ全体のことではない。もっと狭い範囲、主に奈良公園にいるシカのことだ。東大寺、興福寺、春日大社……など世界遺産に指定された寺社の境内に加えて、隣接した若草山や春日山原始林、そして奈良市中心部の市街地も含めて生息する、人に馴れて観光客の人気を博しているシカである。
なぜ「奈良のシカ」なのかという点を説明する前に、ちょっと長くなるが自分の過去の経験を語りたい。
まず私が森林に本気で向き合った原点は、野生動物にある。というと、意外感を持たれるかもしれない。私がこれまで扱ってきたテーマは、森林の植生や林業、そして山村社会などが主で、植物系や社会系に偏りがちだった。
野生動物に目を向けたきっかけは、静岡大学時代に探検部でボルネオ(マレーシア連邦サバ州)に遠征したことにある。目的の一つに野生オランウータンの観察があった。
オランウータンは絶滅の心配される類人猿だが、当時は飼育下はともかく野生状態の研究を行った人はほとんどいなかった。類人猿ではチンパンジーやゴリラの研究は進んでいたが、オランウータンは単独、それも樹上で生活を送るために観察がきわめて難しかったのだ。だから野生のオランウータンを観察することができたら、それだけで貴重。行動を記録できたら論文になる、と言われたのも心が動いた理由だ。
探検部的にはネッシーや雪男、ツチノコといった、いるかどうかわからない未知動物のほうに興味を向けがちだが、さすがに簡単ではない、というか発見できる確率は限りなく低い。そこで確実に生息しているけれど、目にするのが難しい野生動物に焦点を合わせたわけである(ちなみに大学卒業後に、パプア・ニューギニア奥地の湖に生息すると噂された巨大な未知の怪獣を探しに行っている。学生時代のほうが堅実だった)。
ただ一人だけ、ボルネオの野生オランウータンの観察を試みた日本人研究者がいた。岡野恒也博士である。専門分野は動物学や生態学ではなく、比較心理学。人と動物を比較して学習能力などを研究する学問である。すでに自宅で自分の幼子とチンパンジーの赤ちゃんを一緒に育てて知能の発達を比較するというぶっ飛んだ(先進的?)研究をしていた。次は野生の類人猿だ、それなら誰も手をつけていないオランウータンを対象にと考えて、1957年にサバ州に渡ったのだそうだ。
そして短時間だがジャングルで野生のオランウータンとの邂逅に成功した。論文も書いている。ここで重要なのは、岡野博士が私の在籍している静岡大学の教養部教授だったことである。私は教授の授業で、オランウータンの話をよく聞いていた。だから探検部でボルネオ遠征の話が持ち上がったときに、教授のところを訪ねたのだった。
午後に研究室を訪れたら、教授は昼食用のインスタントラーメンを煮ていた。だが学生の私は、遠慮して出直すという発想が浮かばなかった。勧められるままにソファに座り遠征計画について話した。教授と一対一で話した経験など初めてだが、私はラーメンが伸びるのを横目で見つつ、探検部の活動と今回の遠征について熱く語ったと思う。教授はそれをよく聞いてくれ、すぐに「顧問を引き受けよう。オランウータン調査をやりたまえ」と言ってくださった。
その後、事情により教授は私たちの隊に同行できなくなったが、1979年に学生三人で出かけ、サバ州デン半島の深部に分け入り熱帯雨林を歩き回った。残念ながら野生のオランウータンは見つけられなかったが、樹上に彼らの寝床をいくつも発見し、糞も確認した。同時に熱帯雨林の伐採現場を目にした。これが森林問題への目覚めにもなった。
帰国後、森林動物学を学びたいという思いが強まった。とくに飼育下ではない野生動物に魅了された。じつは野生動物の研究というより、幻と言われる動物を探すという行為に憧れたのである。森の中を歩き回って、あるいはじっと茂みに潜んで希少な動物に出会う。ときめくではないか。きっと学術的にも意味があるだろう。
大学三年生の夏に南アルプス原生自然環境保全地域の生物調査に参加した。環境庁(当時)と大学の理学部生物学科のプロジェクトに参加させてもらったのだ。そのときに私がお世話になったのが、静岡県林業試験場(当時)の哺乳類担当の鳥居春己氏と岐阜歯科大学(当時)でコウモリを研究していた前田喜四雄氏である。そこで動物の足跡を追いかけたり糞を見つけたり、ワナを仕掛けてネズミを捕獲したり、あるいは網によるコウモリの捕獲など初めての体験が目白押しだった。それが私の原点になる。
その後も小笠原諸島に幻と言われたオガサワラオオコウモリを探しに行った。大空を飛ぶ翼長1メートルのオオコウモリは発見できなかったが、未知の洞窟の深部で大量の骨を発見した。オオコウモリの墓場を発見か、と興奮して骨を収集し前田氏に鑑定してもらったら、オオミズナギドリという海鳥の骨だった……。当ては外れたが、鳥が洞窟に入ることに驚き、動物の意外な習性に興味津々だった。
卒論でも森林動物を手がけようと思った。林業被害で問題になっていたサルやニホンカモシカの生態を研究したいと鳥居氏に相談したのだが、一蹴された。正確には「やれるものならやってみな」だった。そこで私は、南アルプスの森に一週間こもってカモシカを探した。結果として観察できたのは一度だけ、それも一瞬であった。一年以内に卒論のデータを集めるには無理がある。見て喜ぶだけの探検的観察と違って、いかに大型の野生動物の研究が大変かを思い知った。これでは卒論に間に合わぬと、鳥居氏に泣きついて氏の手がけるノネズミ調査を手伝わせてもらって、なんとか卒論を仕上げた。
卒業後はいろいろあってメディアの世界に入ったのだが、自然を扱いたいという思いが強まり、秘境ライター、アウトドアライター、ネイチャーライターなどの肩書の末に森林ジャーナリストを名乗るようになる。主に扱うのは生物学であり森林生態系であり、林業技術や林業政策、山村経済、そして森林史である。動物からは少し離れていく。
とはいえ、たまに野生動物を扱うこともある。保護か駆除かといった問題が多かった。クマやイノシシ、サルもあったが、やがて農林業被害が目立ち始めた。とくにシカは植林木の樹皮を剥ぐことも多く、森林生態系への影響もバカにならない。さらにシカのジビエ(狩猟肉)も話題に上がるようになった。
野生動物の話題には心がざわめく。日本の野生動物について何か書きたいという思いが芽生えた。ただ安易に取り組むのは躊躇した。獣害は深刻だが、殺せば、数を減らせば解決するというスタンスに賛同できなかった。
そんな中で、ふと気づいた。奈良県に住む私にとって、もっとも身近な野生動物は奈良公園のシカではないか。しかも全国ではシカを害獣扱いして駆除やハンティングの対象とする中で、奈良はシカを守っているのだ。これって、すごいことではないか。
私にとって、奈良のシカがテーマとして好都合と思う理由はいくつかある。
まず第一に子どもの頃からよく知っている。小学生まで私は奈良県と接する大阪の町に住んでいたが、近鉄電車に乗れば新生駒(いこま)トンネルをくぐってすぐに近鉄奈良駅に着く。当時の近鉄奈良駅は地上にあった(現在は地下)が、駅から出たらすぐシカがいたのである。最初は親に連れられて行くが、小学校の遠足の定番の地でもあるし、高学年になると友達同士で奈良公園を訪れることもあった。今でも奈良の町を歩けば、意識せずシカを観察する。この長期観察≠ヘ何かと有利である。
第二に、奈良のシカは向こうから寄ってくる。手を伸ばせば触れられる。こんなに観察しやすい野生動物はいないのだ。それに地元だから取材に通いやすい。一週間雪の山を歩いてもカモシカは十数秒しか見られなかったことを思えば楽、というより野生動物観察の楽園である。
また私は奈良公園にシカがいるのは当然と思っていたが、奈良を訪れた人が街中にいるシカに驚く姿を見て、逆に驚いた。外国人ばかりでなく日本人でも他県人は驚いている。日本人なら「奈良のシカ」を知っているはずだが、実感はなかったらしい。だから実際に目にすると興奮するのだろう。それを見て私も、街中にシカがいるのは珍しいんだ、シカに触れられるのはすごいことなんだ、と気づいた。原野で希少動物とか未知動物を探すのもいいが、こっちも相当珍しい野生動物ではないか。これが第三の理由である。
そのうち奈良のシカは奈良県が誇るべき存在であると再認識した。なんだか身内意識が生まれて、奈良のシカはひと味違う、と自慢したくなる。だから奈良のシカの魅力を伝えたい、というのが第四の理由である。
ただ奈良県だってシカの害に苦しんでいる。現実に山間部では駆除もしている。一方で奈良公園ではシカを守る。この正反対の対応を突き詰めていけばシカと人、ひいては野生動物と人、さらに自然と人の共生の原点をかいま見られるかもしれない。奈良のシカを通して自然との向き合い方を考えられたら。やはり、これが最大の理由だろうか。
なお「奈良のシカ」もしくは「奈良の鹿」「奈良公園の鹿」と表記すると、一種の固有名詞となる。国の天然記念物指定のシカのことだ。ただ毎回「奈良のシカ」などと記すのはまどろっこしいので、本書では私が略して口にしている「ナラシカ」と記したい。つい調子に乗って古都の杜(もり)のナラシカ≠ニ言いたくなるが……。
奈良県全域にいる(ナラシカを除く)シカ、そして全国のシカは、単にシカもしくは地域名を入れて記す。また生物種としては、通常ニホンジカを指す。なお基本的にカタカナで表記するが、固有名詞などでは漢字の「鹿」も使う。
本書では奈良のシカの誕生と現在に至るまでの歴史を追いつつ、広くシカの生態や獣害問題についても考えたい。果たしてナラシカは野生動物として例外的な存在なのか。それとも根っこは一緒なのか。それが現代社会全般にも通じるのか。人が野生動物とつきあううえでの必要なヒントが見つかれば幸いである。
野生鹿が、市民と一緒に普通に横断歩道で信号待ちをする街、奈良在住の手練の森林ジャーナリストが書き下ろした、
日本列島に住む野生動物と人間社会の関係のあり方を論じた本です。
1000年に及ぶ野生鹿との共生の歴史を持つ奈良の事例をひもときながら、
「共生とは、みんな仲良くではなく、みんなスキなく、適度な緊張を持ちながら棲み分ける生き方」(本書あとがきより)だと著者は言います。
今まさに始まった人口急減社会のなかで、家畜、ペット、害獣という分け方を超えた、
動物との新たなインターフェイスを考えるにあたっての、刺激に満ちた本です。