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今昔物語と医術と呪術

【内容紹介】本書「本文」より


 現代中国の人々にとっても、医心方は難解な文献らしい。それというのも、古漢文であること、文字が特殊であるためのようだ。
 その文字の特徴が「今昔物語集」にも見られる。その前後に著わされた「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」とも全く異なり、古典文学中もっとも多様な文字が駆使されていること、医心方の精神や考え方との共通点がいちじるしいのはどういうことなのか。
 「今昔物語集」は医心方の精神に刺激されて著わされたのではないだろうか。
 たんに中国医学とか東洋医学と名づけるよりも、国名を限定せずに「古代医学」と呼ぶにふさわしい広域な国々の、遥かな歴史から生まれてきた医術や呪術が、どのように日本文化に取り入れられてきたか。現代の思考や生活にどうかかわっているか。私が医心方と古典を照合しているのは、その手がかりを得んがためである。
 ところで『今昔物語集』の編著は今もって不明とされているが「世捨人の手によるもの」というのが大方の見解のようだ。
 私は天養二年(1145)に宇治大相国本からの医心方の訓点を写すのに参加した丹波知康がその人ではないかと思う。今昔物語が醒めた眼で鳥瞰的に描かれ、秩序正しくまとめられていること、医心方の精神や考え方が説話に取り入れられていること、医療的な知識を必要とする説話が散見されること。今昔物語には文学性が乏しいが、その醒めた眼は、実力が充分ありながら正当な評価を得られなかった人のものであり、それ故にこそ、痛烈な批判精神が底に秘められているのであろう。
 知康は康頼から数えて7代目に当る。それも直系ではなく、神医と讚えられた4代目の雅忠の次男、重康の次男重基の長男である。医博士であったから貴族社会に明るいだけでなく、世情にも通じていたであろう。
 私は今昔物語に、武士団の世に移行しようとする歴史の転換期の闇を模索しつつ生きた人々の息吹きと、編著者の心を感ずる。
 三島由紀夫氏は「自分がくぐり抜けている薮を見ることはできない」といった。私もまた果てしない薮の中で混迷しつつ、古典を灯として生きようとしているのである。
 さて、ここでは医師の心得についての『医心方』における考え方にふれたので、次は『今昔物語集』の中で病の心と薬の心について書かれた説話と医心方の記述を比較してみよう。
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