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誰にも言えなかった 子ども時代に性暴力を受けた女性たちの体験記

【内容紹介】本書「訳者まえがき」より


 「私は無垢だ」「私に罪はない」という表現がしばしば出てきます。innocentという語の訳なのですが、性暴力の被害者の心理を知らない人にとっては奇異に思える表現かと思います。被害者なんだから罪があるわけないじゃないかと。
 性暴力の被害者、とりわけ被害者が子どもの場合、自分に落ち度があったからこんなことになった、どこまでも抵抗しなかった自分が悪かった、私も共犯者だ、私が悪い子だからこんな天罰を受けたんだ、という思い込みを想像以上に強く抱いています。大人と子どもという物理的にも社会的にも圧倒的に不均衡な関係にあって、子どもたちは抵抗できないことを知っています。たとえ加害者が暴力的強制行為を取らなかったとしても、「おじさんの言うとおりにするんだよ」というその一言にどうして逆らえるでしょう。学校にも上がらない子どもたちは、いったい自分が何をされているかすらわからないまま犯されてしまうのです。性暴力の被害者たちをもっとも苦しめるのは肉体的苦痛より、羞恥心よりも、この自分の落ち度を咎める自責感です。この思いゆえに彼らは沈黙を守ろうとします。この思いゆえに性暴力は他の暴行よりずっと深い心の傷跡を残すのです。被害者に罪をなすりつけるこの不正義は、性暴力と聞くと被害にあった側の落ち度をあげつらわずにはいられないアメリカ社会にも日本の社会にも根強く定着している男中心の文化に由来しています(なぜ男中心の文化に由来しているのかはここで説明を加えるよりも、本文と訳者あとがきを読むことでおのずと明らかになるはずです)。「私に罪はなかった」と被害者が心から自己確認できるとき、その人は性的暴行から受けた心の打撃から懸命に立ち上がり、癒しへの第一歩を踏み出すのです。
 ナイフで刺された傷害事件の被害者は、抵抗しなかったからといって被害者側の落ち度を問われることはないのに、ペニスをさしこまれた被害者は、抵抗しなかったから、それも死にもの狂いの抵抗をしなかったから被害者の側にも落ち度があったとみなされてしまうのがこれまでの強姦裁判例の多くでした。
 リンゴの皮をむくためのナイフが加害者の意志ひとつで武器になるのとまったく同様に、親密さと愛を表現するためのペニスが加害者の意志ひとつで強姦という暴力の武器となる。ナイフとペニスという武器のあいだにどれだけの違いがあるでしょうか。
 本文パート3に収録されている「娘」は13歳の少女ジャナが7歳のときの強姦体験を語ったものですが、その最後をジャナは次のような衝撃的な、しかし性暴力の本質を鋭く突いた文で閉じています。
「そして私は今、少し大きくなりました。フレディが私にしたことの罪で牢屋に入れられればいいのに。そうじゃなかったら、ちゃんとした使い方も知らないペニスなんか切り取ってしまえばいいと思います。男たちがペニスを武器にして、あちこちで小さな少女たちを傷つけることが許されていいはずがありません」

 この本に収録された文や詩は文学的にも読みごたえのある作品であることに気づかれるでしょう。編者のルイーズ・ソーントンが書いているように「子ども時代に性暴力の犠牲になるという身の毛もよだつような体験を、たとえばピカソがゲルニカの爆撃を見事な芸術作品に表現したように、文学にまで昇華すること」のできた作品群です。黒人詩人のマヤ・アンジェロ、黒人ジャズ歌手のビリー・ホリディ、1960年代のフェミニズムの旗手ケイト・ミレットなど著名な女性たちの体験記も含まれています。
 一編、一編の文章から届く声は読む者の心に突き刺さりそうに鋭利です。怒りと悲しみの感情があまりに強烈にわき起こり、そのやり場がみつからず、困惑してしまいます。彼女たちの声は、日本のまだ沈黙を守りつづけている被害者たちの記憶を呼び覚ますことでしょう。勇気をもたらすことでしょう。言葉を与えてくれるでしょう。心理学者より、セラピストより、犯罪学者より、誰よりも性暴力の被害を受けた人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。人生のネガティブな汚点でしかなかったその体験は、それを語り、意識化しようとするプロセスの中で、その人の強さの拠りどころとなり、その人の存在を支える土台ともなり得ます。語りはじめること、いまだ存在しない言葉を捜しながら、たどたどしくも語りはじめること。
 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義しなおす仕事は、日本では今はじまったばかりです。この本の読者の中から、何人、その仕事の担い手が生まれるでしょうか。
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