![]() | D.G.ハスケル[著] 屋代通子[訳] 2,700円+税 四六判上製 368頁 2019年5月刊行 ISBN978-4-8067-1581-8 ジョン・バロウズ賞受賞作、待望の翻訳 アマゾンの先住民の森林への深い智慧と森の構成員としての関係性、 イスラエルとパレスチナのオリーブ農家の伝統と改革、 大都市ニューヨークの1本の街路樹から見えてくるコミュニティの姿、 400年前から命をつなぐ日本の盆栽に見る人と自然――― 1本の樹から微生物、鳥、ケモノ、森、人の暮らしへ、 歴史・政治・経済・環境・生態学・進化すべてが相互に関連している。 失われつつある自然界の複雑で創造的な生命のネットワークを、 時空を超えて、緻密で科学的な観察で描き出す。 [推薦文] 魂を慰撫してくれる本。 人間がこれまで、この地上に自分たちの居場所を与えてくれていた 当の生命ネットワークを断絶させてきたことを、まっすぐに告発している。 デヴィッド・ハスケルが命の核心に寄せる聴診器の音に耳をそばだて、 そこからあふれ出す詩と音楽に耳を傾けてほしい。 ――『樹木たちの知られざる生活』著者ペーター・ヴォールレーベン 著者のウェブサイト 本書に出てくるサウンドを聴いたり、樹木などのカラー写真を観ることができます。 ●日本経済新聞7/6(土)読書欄で紹介されました。 筆者は中屋敷均氏(神戸大学教授)です。 |
デヴィッド・ジョージ・ハスケル(David G. Haskell)
アメリカ、テネシー州セワニーにあるサウス大学の生物学教授。
ジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団からフェローシップを与えられている。
オックスフォード大学で動物学の学士号、コーネル大学で生態学と進化生物学の博士号を取得。
調査や授業を通して、動物、特に野鳥と無脊椎動物の進化と保護について分析を行い、多数の論文、科学と自然に関するエッセイや詩などの著書がある。活動は、科学、文学の域を超え、自然そのものを思索するところへ広がっている。
前著『ミクロの森』(築地書館)は、ピュリッツァー賞最終候補となったほか、国際ペンクラブ・センターの選出するE. O. ウィルソン科学文学賞で次点となり、全米科学アカデミーの最優秀図書にも選ばれている。
屋代通子(やしろ・みちこ)
兵庫県西宮市生まれ。札幌在住。出版社勤務を経て翻訳業。
主な訳書に『シャーマンの弟子になった民族植物学者の話』上・下巻、『虫と文明』『馬の自然誌』『外来種のウソ・ホントを科学する』(以上、築地書館)、『ナチュラル・ナビゲーション』『日常を探検に変える』(以上、紀伊國屋書店)、『ピダハン』『マリア・シビラ・メーリアン』(以上、みすず書房)など。
日本語版への序文―弁当箱の木の葉が象徴するもの
まえがき
Part1
セイボ Ceibo 地上50メートルの生態系
エクアドル、ティプティニ川周辺
南緯0度38分10・2 西経76度8分39・5
葉の言葉
天空の湖
森の頂の多様性
小さな強者たち
集団に生かされる
森に溶けこむ精霊たち
石油の眠る土地
アマゾンの声
バルサムモミ Balsam Fir 森は思考する
オンタリオ州北西、カカベカフォールズ
北緯48度23分45・7 西経89度37分17・2
おしゃべりなアメリカコガラたち
鳥の記憶と木が未来にかける夢
世代を超えるバルサムモミの記憶
対話する植物とバクテリア
土のたてる密やかな音
個と集団のあいまいな境界
ネットワーク―生命の根源的な性質
交易―毛皮・金属・木材
ランドサット―北の森の土を知る
針葉と根と微生物と菌、そして人間
サバルヤシ Sabal Palm 砂浜で生きる
ジョージア州、セント・キャサリンズ島
北緯31度35分40・4 西経81度09分02・2
バリア島のコミュニティ
たゆみなく変わりつづける地
砂という波に乗るサバルヤシ
幹に水を貯めて、数カ月生きる
アカウミガメの古い海岸の記憶
波の泡の筏(いかだ)―海の微生物のコミュニティ
プラスチックを分解する微生物
海面上昇が難民を生む
海辺に生きる賢者となるすべ
トネリコ Green Ash 倒木をめぐる生物たちの世界
テネシー州、カンバーランド高原、シェイクラグ・ホロー
北緯35度12分52 ・1 西経85度54分29・3
3月―キクイムシ
4月―トチノキ
5月―ミソサザイ
6月―ガラガラヘビ
8月―木の洞
10月―動物たちの通り道
11月―顕微鏡下の生き物たち
12月―ヤスデ
1月―種子のゆりかご
2月―倒木から糧を得る
最初の誕生日
二度目の誕生日
幕間 ミツマタ Mitsumata 紙と神の記憶
越前市、日本
北緯35度54分24・5 東経136度15分12・0
Part2
ハシバミ Hazel 中石器時代の人々を養う
スコットランド、サウス・クイーンズフェリー
北緯55度59分27・4 西経3度25分09・3
橋の工事が呼び覚ましたもの
ハシバミが支えた命
木の叫びが鉱夫の命を救う
ハシバミと石炭にかわる炎
関係性を再生する
セコイアとポンデロサマツ Redwood and Ponderosa Pine 木々をわたる風が太古と現代をつなぐ
コロラド州、フロリサント
北緯38度55 分06・7 西経105度17分10・1
樹皮の香り
風を梳(す)き、風を裂く針葉
樹木の苦しみの音
節水精神
火災は森林の姿を変える
噴火と化石セコイア
岩に刻まれた生命の歴史
ふたつの針葉樹の声を聞く
生命ネットワークに存する真理
幕間 カエデ Maple 二本のカエデが紡ぐ歌
[T]―テネシー州、セワニー
北緯35度11分46・0 西経85度55分05・5
[U]―イリノイ州、シカゴ
北緯41度52分46・6 西経87度37分35・7
カエデ[T]―冬、かすかな変化の音を見る
カエデ[U]―ヴァイオリンの音色
カエデ[T]―四月、満開の花
カエデ[U]―透明感のある塊
カエデ[T]―若葉
カエデ[U]―指で音を聞く
カエデ[T]―太ったり縮んだりする小枝
カエデ[U]―木の第二の人生
カエデ[T]―小枝のなかのリズム
カエデ[U]―息を吹き返す板
Part3
ヒロハハコヤナギ Cottonwood 公園の木と川と風をめぐる生命のネットワーク
コロラド州、デンバー
北緯39度45 分16・6 西経105度00分28・8
ふたつの川が合流するコンフルエンス公園
道路に撒かれる塩と川の生き物たち
排他的な自然
自然と非自然
人々と生き物が集う場所
川が人々の一部になる
マメナシ Callery Pear 街路樹はコミュニティへの入り口
マンハッタン
北緯40度47分18・6 西経73度58分35 ・7
木の一部となる街の音
都市と田舎の生物多様性
人の都合に左右される植物たち
毒を無害化する
街路樹との心の絆
木の根の空間が人々の居場所に
木々が都会を癒やす
梢の下に生まれる社会
オリーブ Olive 切り離せない木と人間の運命
エルサレム
北緯31度46分54・6 東経35度13分49・0
エルサレムの歴史とオリーブ
大災厄(なくば)の日
灌漑で「喜びに満ち、花の咲きこぼれる」土地
オリーブ林が紡ぐ物語
農村ネットワークを再構築する
コミュニケーションと協働
オリーブの花粉が語る文化の盛衰
関係性が保つ知識
ゴヨウマツ Japanese White Pine 樹木の命と人間の命は関係性のなかに築かれる
宮島、日本
北緯34度16分44・1 東経132度19分10・0
ワシントンDC
北緯38 度54分44・7 西経76度58分08・8
ある木のルーツを訪ねて
一本の木を丸ごと感じる
空気・木・森の関係性との対話
謝辞
訳者あとがき
参考文献
索引
忘れがたい日本の森に出くわしたのは、思いもかけないところだった。その時わたしは、武生駅(たけふえき・北陸本線)のホームにいた。弁当箱のなかに、森が忽然と出現したのだ!
駅に着くまでわたしは15キロも歩き回り、神社や紙漉(す)き工房、田舎道をめぐってきていた。脚はぱんぱんになり、腹ペコだったので、売店で弁当を買い求めたしだいだ。ただ体に滋養を求めただけだったのだが、受け取ったのはそれ以上のもの―多くの意味を孕(はら)んで端然とそこに存ある一枚のモミジの葉だった。
何年も経ったあとでも、あの時の葉をわたしははっきりと記憶にとどめている。
葉は、弁当の飯の上にていねいに飾られていた。燃え立つような赤い色がわたしの目を焦がし、その形に導かれてわたしの思いは森へと飛んだ。これは合図だ。およそ森とは遠くかけ離れたこんな場所だが、生きとし生けるものがみな、四季の移ろいのなかにその居場所をもっているという証(あかし)なのだ。
人の手が生み出した産業のただなかで―コンクリート造りのプラットホームやプラスチック製の弁当箱、技術の粋をつくした列車に囲まれていても、森は生き生きとわたしのなかに飛びこんできた。鉄道駅のホームにいながら、わたしの心と体は、生命コミュニティの深い懐に抱かれていた。
あの時のことを、なぜこうまではっきりと覚えているのだろうか。
弁当そのものはごくありきたりの安価な駅弁にすぎなかったけれど、モミジの葉が、不意打ちでわたしにくれたのは、森との魂のふれ合いだった。それは、日本の人々と木々との特別な関係を語りかけてくれるものだった。そのころまでにわたしは、文学を通じて日本の木々と人々との関係を学んでいて、両者の結びつきを示す表現に数多く出会っていた。わたしにとって弁当箱のモミジの葉は、はからずも、日本人と木々との関係性のシンボルになったのだった。
もちろん、日本で人が木々を尊び、あるいは活用するやり方は一様ではない。かの国は文化も自然環境も豊かで奥深い。木々と人々との関係も土地や時代に応じてさまざまな形をとる。その多様な習俗のなかに、北アメリカからやってきた観察者であるわたしが、とりわけ心惹かれたものがいくつかある。
わたしの知識が限られていることと外国人であるゆえに、自分が得た印象はややともすれば誤っているかもしれないし、理解の不充分なところは多々あるだろう。一介の訪問者でしかない身として、誤っていたとすれば謙虚に反省したい。
日本では、季節の移り変わりを見守り、称(たた)える習わしが非常に発達している。そうした営みの中心に、往々にして樹木が在る。色を変える葉、春に現れる木の芽、咲き誇り、やがて散り逝く花。だが季節を愛でる風習は、もっと幅広い現象をも取りこみ、例えば凍結する川や湖沼にまで目が向けられる。例年行われるこうした祭りや儀式は、地球の公転を寿(ことほ)いでいるのだ。そしてそうした儀式や習慣が、足元の自然環境の隅々(すみずみ)にまで五官を広げることを可能にし、故郷の地とわたしたちとを結びつける。
日本以外の、特に工業化の進んだ国々では、そうやって自然環境に思いを馳(は)せる機会などほとんどないままに一年が終わることもめずらしくない。日本の伝統は、わたしたちが生命のコミュニティの一員たることを、胸の躍るやり方で、贅沢に思い起こさせてくれるのだ。
人間が自然に帰属することの証は、信仰にまつわる習俗にも多々見受けられる。寺や神社のまわりを取り囲むスギやイチョウ。樹木や森にはカミが宿る。御神木や鎮守の森という名前で明らかに崇(あが)められることもあれば、言葉すら不要な場合もある。こうしたしきたりがあるのは、人が、人間ばかりでなく、樹木をはじめとする植物をも含んだ世界に埋めこまれていることへの自覚があるからこそだ。ある種の社会に見られるような、「自然」と「人間」との画然たる区別は、日本社会にはまったくないか、あったとしてもごくあいまいなもののようだ。
伝統的な信仰習俗と現代的な生態学の知見とは、ここではこうしてひとつに収斂していく。つまり、人はより大きなコミュニティに属しており、人間と人間以外の生命の境界は決して絶対的なものではなく、相互の目には見えない交歓が世界を活気づけるのだ、と。
もちろん、だからといってそれ以外の信仰習俗の多様なあり方や、科学と宗教との境界に目をつぶってはならない。だが日本において、信仰の世界が木々や森と深く結びついていることはやはり刮目(かつもく)すべきだ。土地の侵食や気候変動、過剰な伐採と、森が多くの難題に直面している現在、人間の人間たる所以(ゆえん)は、他の生命との関係性のなかにこそあるのだという真実が、信仰の現場から発信されつづけることは何にもまして重要だからだ。
わたしたちが、生きている意義を、価値を探す場は、宗教だけではない。芸術もまた教えてくれる。
絵画を、音楽を、文学を、そして園芸を通して、わたしたちは複雑なるこの世の意味を探し求め、改めて感じ入り、あるいは問おうとする。芸術の形を借りてわたしたちは美を求め、なかんずく真実の価値を垣間見る。
日本においては、風景のなかの、とりわけ木々の形や特徴が、芸術の基盤にある。木々や森の様相や、それが伝えてくれるものを敏感に取りこもうとする芸術のあり方は他の社会ではあまり見られない。日本以外の社会では芸術家のまなざしはむしろ内に向かい、文化や意識の内面の動きをとらえようとするからだ。そういう意味で、日本の芸術は人間の世界を大きな生命コミュニティとつないでくれるのだ。
『木々は歌う』を書くにあたって、わたしは多くの樹木を訪れた。それぞれが、大いに異なる環境で生きている木々だ。たくさんの旅のしめくくりとして、わたしは日本のゴヨウマツを選んだ。およそ400年の樹齢を重ねた盆栽だ。わたしがこの美しい樹木で本を結ぼうと思ったのは、日本人の木々との関係が、すべての人々に―生まれた国がどこであるかにかかわらず―、大事なことを教えてくれると考えたからだ。
いま、世界中で森が受難している時代だからこそ、わたしたちには木々と互いに恵み合いながら生きるためのヴィジョンが必要だ。そのような生き方の手本は世界中にある。アマゾンの人々は彼らの森を深く知りつくし、強い絆で結ばれている。中東のオリーブ農家は、伝統を守りつつ新しい手法も取り入れる。そしてマンハッタンの住民と街路樹の間にさえ、互いに支え合う関係が存在する。
日本でわたしは、とりわけ尊敬に値する、それでいて歓びといたわりに満ちた人と木々との関係に遭遇した。日本でふれた人と木々とのさまざまな絆には、あらゆる生命に通じる真実があった―わたしたちは決してばらばらに存在するのではないということ、命を与え合いながら生きているのだという真実が。
2019年1月18日
デヴィッド・ジョージ・ハスケル
ホメロスの時代のギリシャ人にとって、クレイオス―声名―は歌によって作られた。空気の震えに、人物の度量と記憶とが乗せられる。したがって耳を傾けることはすなわち、永く残る名声を知ることだった。
わたしは生態のクレイオスを探して、木々に耳を寄せた。英雄は見つからなかった。そのまわりで歴史が動くような単独の存在はひとつとしてなかった。その代わりに、木々の生涯は彼らの歌にはっきりと示され、生命の連環を、網の目のように広がる関係性を語ってくれた。わたしたち人類もまた、その語りのうちにある―血族として、ヒトの形をとった同胞として。
耳を傾けることはだから、自分たちの、そして自分の親族たちの声を聞くことでもある。
この本では、ひとつひとつの章でそれぞれ特定の樹種の歌に聞き入っている。物理的存在としての音の特性や、音を生きたものにする物語、そしてわたしたちの、体や心や頭がそれに対して示す反応に費やされている。歌の本質の大半は、表面的な音の響きの下にある。
それゆえに耳を傾けることは、聴診器を大地の肌にあて、その下で渦巻く音を聞くことでもある。
わたしは、特性の大きく異なる土地に生える木々を探した。
第一部には、人間とは遠く隔たって暮らしているかに見える木々の物語が集められている。ところがこうした木々とわたしたちの生涯も、過去そして未来にわたって、もつれあっているのだ。そうした関係性のうちには、生命の起源に匹敵するくらい古いものもある。あるいは、古い関係性が産業によって新たに掘り起こされたものもある。
次なる部では、死して久しい木々の名残、化石や木炭を掘り出した。これらの古老たちは、生物や地質の物語の一翼を伝え、おそらくは未来への証人となる。
第三の部では、都会や田園に生(お)う木々に注目した。そこでは人間が優位にあり、自然は沈黙し、息を止めているかに見える。それでも生物たちによる生来の関係性はあらゆるものにしみわたっているのである。
いずれの場所でも、木々の歌は関係性のあわいから生まれていた。一本一本の木々がそれぞれ独立してそびえているように見えても、木々の命の営みは、そのように原子論的なくくり方を裏切っている。われわれはみんな―木々も、人間も、虫も、鳥も、バクテリアさえも―多であってひとつなのだ。生命は、互いが互いを包含しあうネットワークだ。この生命ネットワークは、決して慈悲に満ちた調和の理想郷ではない。
むしろそこは、生態からの要請と進化の要請がせめぎあい、協働したり衝突したりしながら折り合いを見出していく場なのだ。このような努力の果てに往々にして生き延びるのは、ほかより強くて独立性の高い個体ではなく、関係性のなかに自ら溶けこめる者たちだ。
生命はネットワークなので、人間たちから分離して隔絶された「自然」や「環境」なるものは存在しない。わたしたち人間もまた生命共同体の一部分で、「彼ら」とともに関係性をなしている。
したがって人対自然という、西洋哲学の中核にある二元論は、生物学からみれば幻だ。われわれは、ゴスペルに謳われる、「禍多きこの世を彷徨う見知らぬ旅芸人」[訳注:19世紀末ごろから伝承されているゴスペル]ではない。そして、ウィリアム・ワーズワースの抒情歌謡が生み出した孤絶した生き物でもない。だからわたしたちは、自然から放り出されて策謀という名の「淀んだ水たまり」に落ち、「事物の麗しい実体」をゆがめたりはしない[訳注:「淀んだ水たまり」はワーズワースの詩'A Poet! He Hath Put his Heart to School'、「事物の麗しい実体」「科学と芸術」は'The Tables Tured'の一節]。わたしたちの肉体と精神、「科学と芸術」は、これまでもずっとそうであったように、自然にして荒々しいのである。
わたしたちは生命の歌の外へは踏み出せない。この歌こそがわたしたちを作っている。それがわたしたちの本質だ。
だからわたしたちは、帰属しているということを行動原理にしなければならない。それは、人間の活動がさまざまな形で、世界各地の生物のネットワークをすり減らし、つなぎなおし、切り離しているいま、なおのこと、緊急の課題だ。木々という、自然界のつなぎ手の声に耳を傾けることは、すなわち、生命によりどころを与え、実態をもたらし、美をも提供している関係性の中に、いかに住まうかを学ぶことでもある。
人は、多様な生物たちといっしょに、命のネットワークという大きなコミュニティに属している。
人間と人間以外の生命の境界は、絶対的なものではない。
人間と人間以外の生命の、目には見えない交歓が世界を喜びに満ちたものとしている―――
著者のハスケル博士は静かにわたしたちに語りかけます。
アマゾンの熱帯雨林の巨木、ニューヨーク・マンハッタン島の街路樹、
ロケット弾が飛び交うパレスチナの地のオリーブから、原爆を生き延びた400年の命をつなぐ広島の盆栽まで、
世界中の12本の木と、木を取り巻く自然のネットワーク、そして人間社会との関係性を、詩のような文章で表現したのが本書です。
著者は、しばしば時間と空間を一足飛びに超えていくので、めまいがしますが、それは心地よいめまいです。
美しい歌に幻惑されるような心持ちになるでしょう。
日本版への序文と、原著にはない著者による写真を豊富に挿入した特別版です。
本書から溢れ出す詩と音楽に耳を傾け、豊かな時間をお過ごしください。