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チョコレートを滅ぼしたカビ・キノコの話
植物病理学入門

ニコラス・マネー[著] 小川真[訳]

2800円+税 四六判 320頁 2008年8月発行 ISBN978-4-8067-1372-2


コーヒー、カカオ、ゴム、穀物、ジャガイモ飢饉、森林破壊、生物兵器、動植物の大絶滅-----

人間の歴史、生物の進化の
隠れた主役の物語。

ジャガイモ、トウモロコシ、コーヒー、チョコレート(カカオ)、ゴムの生産に大きな影響力をもち、クリやニレなど都市景観を形成する樹木を大量枯死に追いやる。生物兵器から恐竜の絶滅まで、地球の歴史・人類の歴史の中で、大きな力をふるってきた生物界の影の王者、カビ・キノコ。
彼らは、今また不気味な動きを見せている。
本書は、地球上に、何億年も君臨してきた菌類王国(※注)の知られざる生態を描くとともに、豊富なエピソードを交えた平易でありながら高度な植物病理学の入門書である。

(※注)生物分類学上、最高の階級である「界」に分類されるのが植物、動物、菌(カビ・キノコ)など。界は、英語ではキングダム(kingdom)。

【目次】


第一章 風景を変えたカビ

第二章 ニレとの別れ

第三章 コーヒーを奪う奴

第四章 チョコレート好きのキノコ

第五章 消しゴムを消す菌

第六章 穀物の敵

第七章 カビが作るジャガイモスープ

第八章 止まらない木の枯れ------
     未来に向けての菌とヒトのかかわり

●人名索引
●事項索引
●種名、病名および病気に関する事項索引

(和名があるもの、かな表記したものについては、五十音順索引に載せ、本文中にラテン名、英文のみで表記したものは、ABC順の索引とした。和文、欧文両記の語については、両方の索引に載せてある。)

はじめに ニコラス・マネー

 本書では、歴史上最も破滅的な被害をもたらした菌類による病気を取り上げてみた。それらは風景を一変させ、人類を死に追いやった、眼に見えないほど小さな胞子による樹木や作物の伝染病だった。アイルランドで起こったジャガイモの疫病による飢饉のことは誰でもよく知っているが、他の菌類による病気についてはさほど知られていない。しかし、同じように破滅的な結果をもたらしたことがあったのは事実である。

 ここでは、よく知られている病気だけでなく、あまり知られていないものにも触れながら、その素晴らしい生物学的研究の成果に的を絞って紹介しようと思う。同時に、その研究に携わった科学者だけでなく、アメリカグリなどの樹木の枯死やコーヒーノキやカカオノキのような換金作物の病気によって、直接損害を被った人々についても述べることにした。

 菌類の伝染病を扱った本は、おもしろくて興奮するような読み物ではないが、病気と闘った菌学者や植物病理学者の伝記には、人類のある種の楽観主義が見え隠れして、それなりに興味深いものがある(時にはやけくそ気味の奇行にも見えるが)。植物に感染する菌類に関する知識は、驚くほど短期間のうちに迷信の域から病気の本当の姿をとらえるところまで、いや、最近では生物に対する畏敬の念を抱かせるほどまで、飛躍的に進歩した。なお、菌類の伝染病を利用しようとした人間の過ちについては最後の章にまとめて紹介した。

 この本の表題 「The Triumph of the Fungi」 についても、少し触れておく必要がある。第二次世界大戦の二年目、一九四〇年に植物病理学者で技術者、さらに小説家でもあったアーネスト・C・ラージが 「The Advance of the Fungi」(New York: Henry Holt and Company)という素晴らしい本を著した。その中で、ラージは堅い技術的な話をユーモアでやわらげながら、研究者たちに植物の病気を描いて見せてくれた。この著書は、二十世紀後半を通じて大学の農学部の研究室や政府の研究機関に働く多くの植物病理学者にとって、大切な教科書のひとつになっていた。

 また、ジョン・ラムズボトムが一九五三年に出した 「Mushroom and Toadstool」(London: Collins )も、同じようにおもしろく、菌類研究者を勇気付けてくれた著書だった。このラムズボトムの本は図らずも、私の最初の著書 「Mr. Bloomfields Orchard: The Mysterious World of Mushrooms, Molds, and Mycologists」(New York: Oxford Univ. Press, 2002. 日本語版『ふしぎな生きものカビ・キノコ』〈築地書館、二〇〇七、小川真訳〉)のモデルになった。この二つの著書はほぼ半世紀隔たって出版されているが、いずれも菌類の成長やキノコの自然界における役割を取り上げたものである。

 本書は、ラージの著書が出版されてから後、六五年の間に進展した菌類に関する知識を加味し、植物の病気に関する研究の歴史を振り返りながら、彼の著作を補おうとしたものである。おそらく、ラージもこの本の新しい表題に賛成してくれることだろう。

 「The Advance of the Fungi」 が出た一九四〇年以降も、菌類は進化し続け、人間が栽培するあらゆる作物に取り付き、胞子は行き着く先々で、新しい宿主を開拓している。菌類はこのたゆまざる歩みを通して、菌害は防げないものという定評を勝ちとってきた。菌類は植物に取り付く病原微生物の中の最たるもので、毎年作物に何十億ドルもの損害を与えている。驚くほど効果のある殺菌剤や次々と開発される抵抗性品種、さらには遺伝子組み換え技術などが試されているが、疫病やさび病、腐朽などは一向に収まっていない。科学的な研究が始まって以来、一世紀以上たつが、ジャガイモ疫病やクリ胴枯病、ニレ立枯病などは、依然として治らないままである。

 我々人間にできることは、生物界で気ままに生きる菌類の活動を抑え込むために、莫大な経費を浪費して戦い続けることぐらいしかない。もう少し肯定的な見方をするなら、人類と菌類の多様なつながりが、自らの生存に必須だという事実を、生物学者たちが身にしみて理解したということぐらいだろう。間違いなく、我々人間は菌類がいない地球上では生きていけないのだ。

 本書の記述のしかたは、病気の発生を歴史的に追ったものでも、人間がそれを知った歴史をたどったものでもない。物語は、二十世紀初頭に北米東海岸の森林風景を一変させたクリ胴枯病から始まる(第一章)。私たちの多くがまだ生まれていなかったころに起こった、巨大なアメリカグリの枯死の影響を想像しろというのは、無理な話かもしれない。ちなみに、二〇〇六年はこのクリ胴枯病が最初に記載されてから、ちょうど一〇〇年目に当たる。

 第二章では、クリ胴枯病が発生してから数年後に、ニレの類を絶滅に追い込んだ破壊的な病害を紹介する。他のどの菌類による病気にも増して、このニレの病気はヨーロッパや北アメリカの村や町の風景をすっかり様変わりさせてしまったのである。

 第三章、第四章、第五章では、熱帯の重要な換金作物であるコーヒーノキ、カカオノキ、ゴムノキの菌類病をそれぞれ紹介する。これらの病害はいずれも十九世紀のヨーロッパ人による大規模栽培事業がひき起こしたもので、単一種の作物を大規模に栽培(単一栽培)すると、菌類の攻撃に対してどれほど弱くなるか、よく理解できるはずである。

 第六章、第七章では、ローマ時代に行われた作物の病気を鎮める神の祭りに始まり、十七世紀の植物の病気に関する科学的実験に至る研究の歴史、および植物病理学という研究領域の始まりについて触れようと思う。植物病理学の出発点となった病気は、ムギ類のさび病や黒穂病(第六章)、アイルランドの飢饉のもとになったジャガイモ疫病(第七章)などだった。

 最後の第八章では、未来の生物界の調和をめぐって争う人類と菌類との競合の有様を描いてみた。菌類が植物と密接な関係を保っていたという証拠は、四億年前の化石に残されている。菌類の祖先の多くが初期の陸上植物と互いに協調関係を保っていたというのは確からしいが、多分、すでにシルル紀には、今とまったく同じように植物を攻撃していたことも事実である。もっとも、最近になって突然現われたナラ・カシ類の急性枯死のように、新しい病気の発生はめったにないことかもしれないが、将来、森林の健康や農業への菌類の影響を楽観視できる根拠もまったく見当たらない。私が微生物学の宝庫にわけ入って楽しむのと同じように、皆さんがこの本の内容を深く味わってくださることを願っている。