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田園の食卓

【内容紹介】本書「本文・身近な味」より


 横浜の私の畑には、冬でも緑色が座を占めていて、白一色になる信州時代に比べると、夢のようである。三浦大根の葉の中国野菜の青梗菜(チンゲンツァイ)、打姑菜(タークーツァイ)、信州から種をとりよせてまいた野沢菜、そしてカラシナ、これだけあれば春まで緑を食べ続けることができる。
 堆肥は自分で作り、農薬をかけないので、野菜は虫に食われることもあるが、安心して食えるため、余ると知人たちに分けてあげて喜ばれている。
 この緑の野菜を、中国風に油でいためてシラス干しを加えると、色どりも味もよくなるので、毎日欠かすことができない。幸い近くの相模湾でシラスが冬から春にかけて獲れる。私の冬の散歩は、江の島から材木座まで海ぞいに歩くことにしているため、途中、七里ヶ浜でシラスのかまゆでをしている漁師と出会い、冬の海の話を聞く楽しみもある。山を下って逗子に出ると、無漂白と銘うったシラスを売っているのを見かける。食物を買うことに常に抵抗感を抱く私は、表示にひかれてシラスを買うことにしている。
 人間が住む50キロ範囲内の作物、獲物を食べるのが一番安全であると考えているからである。近くの海とわが畑が生み出す食べ物によって、私の健康は支えられているといってもいい。
 暮れから新年にかけて、テレビはグルメばやりの世相を紹介していたが、私には、あれは産地から遠のいた大都市の末期症状と映ってくる。食べものを生産することも料理もできそうもない女優が、あてがわれた豪華な食卓を前にして「おいしい」と連発する珍景をみていると、食糧自給力を放棄してしまった日本の、哀れな光景とも見えてくる。
 今日、まともな消費者が切実に求めているのはグルメばやりのうわついた食卓ではなく、安全性を確保した食べ物である。産地から遠ざかるにつれて安全性はうすれていく。見ばえや形を売り物にする時代から安全性が求められる時代に移行しつつあることに、生産者たちも目を開く必要がある。
【内容紹介】本書「あとがき」より

 私は一貫して生産者に視点をおいて食を考えてきました。現代のような加工食品、輸入食品、外食食品のさかんな時代に、あえて一石を投じるような書を世に問うのは、たんに伝統食に固執しているのではなく、とかく消費者に重点をおきがちなこの国の食べ物の世界に疑問を抱かされているからです。
 本来、生産者の側から食べ物のおいしさを評価するのが当然なのに、生産者からは声が聞かれず、空虚な消費者のグルメ騒ぎが社会をにぎわしています。生産者の代弁者となることも時には必要であり、私なりに田園の声を上げてみました。
 土地の値上がりのため、やがて大都市に人が住めなくなるとき、田園の役割に気付き、大地や海が改めて見直される時が来ます。その時こそ自分の住む大地で生産されたものを、自分が食べて働くという基本的な生き方を思い出すことでしょう。
 今回は国の内外に問題を抱えている日本の農業にも少し触れてみました。経済の高度成長をはたした国が、自国の食糧を自給できず、他国をあてにして食生活を支えられていることへの「現代の批判」が必要になってきます。
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