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方格法の渡来と複合形古墳の出現

椚國男[著]

4200円+税 A5判上製 264頁 ISBN978-4-8067-1378-4

なぜ日本に古墳時代が成立したのか、
なぜ巨大な複合形古墳(※)の築造が可能だったのか……
中国漢代の先進測量・土木技術「方格法」の観点から、
全国の前方後円墳の設計を詳細に分析・検討し、
日本の古墳時代の成立の謎に迫る。
これまでの古墳設計研究をくつがえす1冊。


※複合形古墳とは、前方後円墳、前方後方墳、双方中円墳など、複数の図形から成る古墳の総称。

【目次】


    はじめに

    序章 謎を秘める纒向古墳群

三輪山麓の出現期古墳/纒向石塚古墳の発掘/古墳か?墳丘墓か?/「纒向型前方後円墳」


第T部 竪穴住居の設計から古墳の設計へ


    一章 竪穴住居の設計研究
研究のキッカケ/測量図の検討/T字形設計基準線と柱穴位置/四〇歳の初論文とその後

    二章 前方後円墳の設計法と設計型
設計基準線の位置/三設計型と墳丘長八分比設計/三設計型古墳の検討例/三設計型と古墳群

    三章 中国の考古資料
中国尺の使用と高さの位置決定法/漢代の石製棋盤と地図/画像石の角度定木とコンパス

    四章 三設計型の成立と細分化と分布
三設計型古墳の成因と変化/三設計型古墳の細分型と編年/三設計型古墳の全国的分布/CD別の設計型分布

    五章 設計型からみた畿内の古墳時代
奈良県と大阪府の主要古墳一覧/日葉酢媛陵型古墳時代/応神・仁徳陵型古墳時代

    六章 設計型からみた関東の古墳時代
関東平野の古墳分布/三設計型古墳の分布状況/設計型からみた各地の様相/歴史への接近

    七章 各地方の特色と問題点
九州/中国・四国/近畿/中部/東北



第U部 纒向型前方後円墳と方格法の渡来


    八章 纒向古墳群との出合い
小さな図で知った纒向型古墳/神門4号墳も八分比設計/纒向石塚古墳の検討/『前方後円墳集成』で知った四基/墳形の図上復元と作図法/作図法の三分類と築造期/戻ってきた論文原稿

    九章 纒向古墳群と箸墓古墳
箸墓古墳とホケノ山古墳の距離/纒向古墳群の位置決定法/纒向古墳群のなかの箸墓古墳

    一〇章 纒向型前方後円墳の全国的分布(一)
各地にあった纒向型古墳/分布の特色と問題点/瀬戸内海東半沿岸勢力圏/正円型と連弧型(纒向型)/明らかになってきたこと

    一一章 纒向型前方後円墳の全国的分布(二)
中部/九州/関東・東北/日本列島全域の分布

    一二章 纒向型前方後円墳の出現と広がり
纒向型前方後円墳の出現/「方格法」の渡来と受容/箸墓古墳と吉備の出現期古墳/纒向勢力の成立と歴史的意義



第V部 畿内三大古墳群の形成と歴史


    一三章 佐紀・盾列古墳群の形成
位置決定法の再検討/纒向古墳群との比較/仁徳陵型の誕生地かも/佐紀・盾列古墳群は墳形年代尺

    一四章 古市古墳群の形成
位置決定法の再検討/佐紀・盾列との比較と問題点

    一五章 百舌鳥古墳群の形成
位置決定法の再検討/ニサンザイ古墳につづく古墳は?/関東に多い仁徳陵型古墳

    一六章 三大古墳群の歴史への接近
佐紀・盾列勢力/古市勢力/百舌鳥勢力



第W部 古代の土木設計を追って


    一七章 中心角とモノサシを使った弥生住居
南関東の胴張り隅円長方形住居/考古学との出合い/戸板女子短大内遺跡での発見!/円弧連結形住居の分類と直線化/中心角による長方形の規格化/円と中心点・天円地方観・心柱めぐり

    一八章 方格法の渡来と広がり
あいつぐ築造企画論/方眼設計法と「方格法」の出合い/「方格法」の創始者張衡と裴秀の六原則/「方格法」の渡来期/私と方格図法/組み合わせ使用と複合形文化

    終章 獲物を追う猟人のごとく
古墳の設計研究をはじめたころ/上田説への疑問/円にとらわれた他説/前方後円墳の起源説/纒向型前方後円墳の援軍/方格法の普及は技術革新/古墳時代を成立させたもの/ふたたび纒向古墳群へ



    おわりに
    参考文献
    古墳名索引
    事項索引

【はじめに】

 古墳には円墳・方墳などの単一形古墳と、前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳などの複合形古墳がある。何でもない分類のようであるが、両者の間には時代や社会を大きく変えたものがあり、それが、本書のサブタイトルにした中国漢代の発明「方格法」のわが国への渡来である。

 単一形古墳は半径や辺の長さを変えるだけでさまざまな規模のものをつくることができるが、複合形古墳は方格(方眼)を媒体とした設計と拡大化が必要である。しかし、その結果、地上に巨大な複合形相似物をつくることが可能になり、この技法と技術が急速に日本列島各地に広がって、古墳時代が成立したのである。

 一七歳ごろから画家志望だった私が、勤務校の生徒たちのつよい要望で考古学部をつくったのは一九六一年の春であり、三〇代の半ばであった。以来、東京都八王子市内の川口川下流域遺跡群を二五年間掘りつづけたが、四年目の夏、中野犬目境〈なかのいぬめざかい〉遺跡でつくりと保存状態のよい鬼高〈おにだか〉期(六世紀)の竪穴住居を掘り、「設計されている!」とおもった。

 これが私の考古学研究のきっかけであり、藤森栄一・三木文雄両先生の勧めと指導で論文にし、『考古学雑誌』五二巻四号と五三巻二号に「竪穴住居の設計計画」の題で発表した。

 翌年の八月、ふと、「民衆の竪穴住居に設計がある以上、支配階級の建造物や築造物にも……」とおもったことから、前方後円墳の設計研究に入り、まず竪穴住居から学んだタテ・ヨコ設計基準線の位置探しからはじめた。

 そのときから早くも四〇余年、この間、研究結果を書にする好運に恵まれ、一九七五年には築地書館から『古墳の設計』、一九八三年には六興出版社から『古代の土木設計』を出すことができた。

 一九九一年からは、近藤義郎編『前方後円墳集成』(山川出版社)のおかげで全国的な研究が可能になり、二年かけて約一七〇〇基設計分析し、古墳時代の様相を概観した。

 三〇年間以上わずかな理解者しかいなかった私の研究に光が差し、新しい局面が開けてきたのは二〇世紀末から二一世紀初めにかけてである。それは二つのことからで、一つは一九九九年の夏から纒向【まきむく】古墳群の研究に着手したことである。その結果、後円部側が正円でない纒向型前方後円墳にも方眼を使った墳丘長八分比設計がおこなわれていることが明らかになり、三世紀のこの古墳群が方位角と戦国・前漢尺(二三・一センチ)によって位置決定されていることもわかった。もう一つは二〇〇一年にジョゼフ・ニーダム著『中国の科学と文明 第6巻 地の科学』(思索社)を読んだことである。この書によって私の「方眼設計法」が漢代の「方格法」だったことを知り、その渡来がわが国の時代を変えたことに気づかせてくれた。方格法はおそらく二世紀末ごろ、測地術などとともに渡来したのであろう。

 二〇〇三年には、『前方後円墳集成』全五巻と『補遺編』で纒向型前方後円墳探しをはじめた。その結果一六〇基以上あることと、南は鹿児島県から北は宮城・山形両県までの各地に分布していることがわかり、その多くが古墳出現期のものであった。検討ミスが少なくないであろうが無視できない数であり、後円部を正円として前方後円墳の設計・企画論を立てた人たちは纒向型前方後円墳の設計法をどのように説明するのだろうか?前方後円墳は正円の後円部をもとに設計したのではなく、拡大相似形と縮小相似形を作図する媒体である方眼=方格を使って設計したのである。

 二〇〇五年からは、纒向古墳群で知った古墳の位置決定法をもとに、すでに二五年前検討した佐紀【さき】・盾列【たてなみ】、古市【ふるいち】、百舌鳥【もず】三大古墳群の工事基準点間距離に方位角を加えて再検討し、設計型・位置決定・築造順などから歴史への接近を図った。

 本書は竪穴住居の設計からはじまった四三年間の研究を四部に構成し、すべて新しく書きなおした。第T部は『古墳の設計』『古代の土木設計』の二書に収めた一七年間の研究にその後の研究を加えた約三〇年間のまとめ、第U部は新しい局面を開くことができた纒向型前方後円墳の約一〇年間の研究であり、第V部は畿内三大古墳群の形成を再検討して歴史の一端を探った最近の研究である。第W部は南関東弥生時代の竪穴住居の設計研究に、第V部までのなかに収まらなかった漢・晉【しん】時代の方格法、組み合わせ使用と複合形文化、先行学説への疑問と批判、前方後円墳起源説などを加えたものであり、四〇余年間の研究のまとめでもある。

 この書は、三六年間お世話になり、考古学研究へのあるべき姿勢を教えていただいた恩師三木文雄先生に捧げます。

  二〇〇八年九月

付記
*市町村名は近年の新市町村名ではなく、従来の呼称を使用した。
*三設計型古墳の表記は、設計型の説明箇所をのぞいて「設計」を省略した。