神代の巻、書誌情報・目次のページへ 人代の巻・上、書誌情報・目次のページへ
内容紹介のページへ 読者の声のページへ
新・古事記伝

【書評再録】


●朝日新聞「私と古事記」=古代史関係の本を読んでいて---へえ、古事記にはそんなことが書いてあるのか、いっぺん、元を読んでみようか---それだけのことだった。あとはぐいぐい面白さにひかれて没頭し、ついには多弁な注釈をつけて全文現代語訳までやってしまった。
最高に楽しかった意外なことは、女性のありようだ。昔ほど女の立場は悪い、という印象を抱いていたので、いくら最高神が女神であっても、日本最古の物語、しかも基本的に女王を認めない王家の歴史に登場する女性像には、私は期待を持ってはいなかった。ところが、神にせよ人にせよ、古事記の女たちの何と溌剌としていることか。別段、威張っているわけではないが、男と対等に語り、時には戦う。そして、読み込むにつれて、中国から輸入した新しい思想によって、男女対等の古い伝承が男尊女卑に修正されてゆく跡が、私には見えてきた。
フェミニズムは復古ではあるかもしれないが、決して、人間社会にありえない不自然な状態を目指すものではない、という確信を古事記は与えてくれたのであった。

●朝日新聞評(1990年6月9日)=【「古事記」が今新しい。自由な解釈で楽しむ】
「古事記」は現存する日本最古の歴史書とされており、712年に成立した。その8年後にできた「日本書紀」に比べて、いわゆる「神話」の部分に重点が置かれ、物語性たっぷりに描かれているのが特徴だ。江戸時代に入って本居宣長が膨大な注釈書の「古事記伝」を刊行したことで研究が進み、一般にも知られる書となった。
中山千夏さんが2月に出した「新・古事記伝」は、タイトルからもわかるように、その宣長の「古事記伝」の向こうを張った労作。現代語訳に詳細な注釈が付けられている。
「こんなに面白いものが、こんなに市井人から遠いのはもったいない」と、自ら本づくりに着手した。皇国史観とは無縁の、戦後世代の新鮮な、しかも女性の目で、最近の研究成果なども取り込みながら、とらえ直している。読んでみて楽しかったことの一つに、「男と女、人間と神、神と動物がほとんど対等に会話しており、女言葉、男言葉の別も見られない」ことを挙げているあたりも、これまでの研究書とはひと味ちがう。

●毎日新聞評(1990年4月13日)=「古事記」は、いくつかの古写本が発見され、1798年、本居宣長が「古事記伝」としてまとめたものが現代に伝わっている。しかしそれはかなり難しい漢文。これを、あの中山千夏さんが現代語に訳し、解説を加えた。
「古事記」が面白い読み物であることを示唆される労作である。

●読売新聞評(1990年2月28日)=古事記をどう読むかは、日本を、日本の歴史をどう考えるかにもかかわってくるが、作家の中山千夏がその現代語訳に挑戦した。物語あり、歌あり、たくさんの謎がある。こんなに素晴らしい古代人からの贈り物を遠ざけておくのはもったいないと3年前から始めたもの。「国の歴史などというものではなくて、太古の世界へ足を踏み入れる楽しさを味わってもらえれば」と中山さんは話している。
“不美人”を表わす言葉が実は“女性権力者”という意味だったり、性別や身分の違いから生まれたとされる敬語が後々の創作だったりと、新しい発見がちりばめられている。
古典の解釈に初めて取り組んだ中山さんは、「いろんな意味で“若かった”日本の、息吹のようなものを感じながら訳しました。読む人それぞれに推理を広げて楽しんでもらえれば」と期待している。

●東京新聞評(1989年9月18日)=皇国史観の道具としての「古事記」ではなく、SFや推理ドラマとしての楽しい「古事記」を紹介。

●北海道新聞評(1990年4月2日)=「まんが日本昔話」調を、もっと泥くさく、ユーモラスにした趣で、「千夏調古事記」として楽しく読める。

●西日本新聞評(1990年3月9日)=「新・古事記伝」をまとめるにあたっては、古田説に負うところが多いが、古代における男女平等など、独自の見解も数多く示している。
ゴツゴツとした「古事記」の古代史が持つ感触を伝えるため、炉端で聞く昔話のようなよどみの多い文体を用いている。

●エコノミスト評(1990年3月20日号)=「古事記」を、古代史家でも国文学者でもない市井の中山千夏氏が現代語訳し、解説するという、意表を突いた全3巻。
著者はここで、新たな学説を展開しようとしているのではない。しかし、その現代語訳はやはり独創的である。著者は、現代人が縄文土器を見た時に感じる違和感を、現代と古代の時差として表現しようとしたし、後世に付加されたであろう階級社会、男女差別の色彩を、可能な限り取り払った現代語訳を創り出そうと試みた。
その結果は「イザナミ様が先に『ああらまあ、いい男だこと』と言った」という文章になった。ひなびて人なつこい神々の姿が、そこから浮かび上がる。

●図書新聞「790上半期の収穫」井狩春男氏の3冊(1990年8月4日)=著者は、この分野ではいわば素人。素人のやってくれた仕事にしては、すごすぎる。この本の前では理屈はいらない。オモシロイ、ただそれだけだ。

●古代文化評(1990年9月号)=記紀神話は、神々の物語としての作品的側面と、その神々を伝承している社会の祖神・祭神としての側面を包含しているが、始祖神話としての性格が強いために、その読みの方法も現実の特定の氏族との結びつきを探るものとなった。本書は「テキスト岩波大系本古事記」上巻本文を昔語り風に現代語訳を施し、記紀の諸異伝を比較しつつ神話の原型、伝承過程を著者独特の感性で著したものである。その神話的世界に対する視点はおおむね記紀神話を「弥生筑紫における新作神話」とみる古田武彦氏の説に立脚する。著者は、「記」の神代巻の神話作成の主体をアマ倭国と想定し、記紀の古態の有様を語ろうとする。その神話的世界の構造は、西郷信綱氏のように高天原、葦原中国、黄泉国を上中下三層構造としては捉えない。著者は、高天原の所在を「壱岐、対馬」に比定し、出雲神話において大国出雲との氏族対立の末、アマが統合した説話と強調するなどの神話の世界をむしろ水平的次元で捉える。また著者らしく女性史からの観点で解釈を試みたところにも特色がある。

●RURUBU評(1990年5月号)=「百人一首」「源氏物語」「古事記」……と聞くと、何だか中学校時代のクラーイ思い出がよみがえってくるみたい。あの頃は、漢字やよくわからない平仮名が並んだものを見てギョッ! さらにテキストでギョギョッ!!って感じで、とにかく早く逃れたいと思っていた。
でも、そうね、大学に入学した頃からだったかな、古典の中に生きた女性や、昔の時代の情熱的な恋なんかに、すっごく魅かれてきたのよね。でもでも悲しいかな、難しい表記への対応能力は、小学校時代から進化していなかったみたい。で、なかなかそれに手を出すチャンスが得られないでいた。
そんな私たちの願いをわかってもらえたのか、最近、普通の小説感覚で読める古典が次々出版されている。しかも、圧倒的に女性作家によるものが多いから、すごくシンパシーを感じるの。うれしくって、どんどん集めてしまった。
今まで何度かは触れてきた古典のはずなのに、初めて“読んだ!”って実感。すべてを読み終えた瞬間、身体はグイィーンと、遥かいにしへの時代にワープ、自分自身がそこに生きた女性になれてしまった。女性だからこそ、ぜひ読んでみてほしい。

●BE SURE評(1990年秋号)=このところ、日本神話の原典「古事記」に関しての刊行などが目立っている。書籍はもとより、マンガ、そして音楽では喜多郎が古事記をテーマに全米ツアーを行なって大好評だった。その中で、BE SUREの読者に中山千夏による古事記をすすめたい。
女の立場からの自由な発想で解釈した古事記は、男と女が、人間と神が、神と動物が対等に呼びかけあい、語り合うことに注目し、それが自然に現れるように現代語訳されている。
皇国史観による神話ではなく、昔から伝わる面白いお話、として気軽に読める本だ。

●読書人評(1991年4月8日)=天才子役、歌手、国会議員、そして今や「子役の時間」で英インディペンデント紙最優秀外国フィクション賞受賞作家である中山千夏の「新・古事記伝」三巻は女性の手による初めての古事記の現代語訳と解説の書である。千夏は、こんなにも面白い古代人の贈り物を、生米やお粥ではなく、御飯くらいの歯ごたえのものとして、また、一般人が楽しめるオモチャとして提供したかったという。
本書の特筆すべき点の一つは、フェミニズムのある理想として古事記の世界を描いていることだ。千夏自身、古事記の楽しさの一つに「男と女、人間と神、神と動物、誰もが「ワ、ワレ」「ナ、ナレ」と呼びかけあい、対等に会話していること」をあげているが、彼女はそれを「あたし」「おまえ」と訳した。
「そこでイザナギ様がこうお告げなさった。『そんなら、あたしとおまえと、このアマの御柱をぐるりとまわって逢って、ミトのマグハヒをしよう』……その時にイザナミ様が先に『ああらまあ、いい男だこと』と言った。」
何と大らかな男女対等の世界だろう。そして古代の女性は実にのびのびしている。
中山千夏がさらに自由に、彼女の個性を生かした古代の女性観を披歴してくれることを今後も期待したい。本書中でも、ヤマト王朝以降の政治的抗争の多くを恋愛物語にすり替えたのは、天皇の管理を外れる恋愛をおしなべて敵視するという「男性の中に今も潜む家父長制のなせる業」との指摘は秀逸である。そして、生き生きとした現代語訳の部分はこれからもしばしば引用されることだろう。

●出版ニュース評(1990年12月上旬号)=現代語訳や解説にも自由で伸びやかな文体が覗く。たとえば「なさった」という昔話スタイルの言い方。あるいはうちてしやまむを、「撃てばけりがつく」と訳するやり方。ごまかしと変更と華やかな飾り立てを、女の直感と柔らかな感受性で読みくだす。寄せ集めや繰り上げや重ねを見破る。

●サンケイスポーツ評(1990年4月14日)=中山千夏さんが五年がかりで書いた大作。天地開闢から大和朝廷誕生までを独創的な注釈を入れながらわかりやすく解説した読み物。「皇国史観の道具としてではなく、推理小説として楽しんでほしい。古代には謎が多く面白い」と千夏さん。
トップページへ