書誌情報・目次のページへ 書評再録のページへ 読者の声のページへ
こんな公園がほしい 住民がつくる公共空間

【内容紹介】本書「本文」より


 都内のある集合住宅で、建物まわりの共有地に庭をつくっている人たちに、庭と公園のちがいをたずねたことがある。いちばんの違いは、庭はさわることができるけれど、公園はさわれない、見るだけというものだった。
 庭は自分で手をかけ、自由に何でも植えることができる。花が咲けばとってきて部屋に飾ることができるし、実がなれば隣にあげてもいい。もし雑草がはえれば抜くし、虫がつけば退治する。けれど公園では、雑草はもちろん、枯れ枝があってもちょっととるというわけにはいかない、と言うのだ。
 このさわれないという言葉に、公園と利用者とのあいだに存在する距離の遠さがあらわされている。公共の、だからみんなのものである公園。けれどそのみんなのなかに、わたしは入っていない。公園と利用者とのあいだには目に見えない距離がある。公園が真に利用者のものになっているとは言いがたい。
 ふつう公園は、いつのまにかできあがっていて、できあがった公園を人びとは既成事実として受け入れる。だから、その管理責任はすべて行政にあると考えられる。柵が壊れている、土ぼこりが舞う、枝がのびすぎていると、問題が起きるたびに苦情が役所に持ち込まれる。そこで、役所は問題が起きないことに大きな考慮をはらい、デザインも使い方も自由度がせばまっていく。その結果、公園と利用者との距離はますます離れていくという悪循環をくりかえし、そのきわめつけが、ダスト舗装に固定遊具のがちがちの公園というわけである。
 住民の公園計画への参加はこの悪循環をたちきり、利用者と公園とを直接結びつけるものである。まちづくりの視点で考えるならば、地域住民の共有地として公園をとらえ、地域の共有空間を住民自身がつくりだし、その使い方を自分のものにしていくことである。
 それはまた、地域空間のあり方を、住民が自分で決めて責任を持つことが権利であると同時に義務でもあることを、住民も行政もともに認識することである。
 公園が生活とは少し遊離したところにあっても、長い間、人びとの生活にとくに支障はなかった。というのも、東京のような大都市にさえ、土手やはらっぱ、屋敷林あるいは斜面林がそこここに残っていて、公園にかわる機能をはたしていたからである。たんぼや畑もあった。子どもたちの日常的な遊び場は、空き地や境内や路地に見つけることができたし、季節の移り変わりを感じることのできる場所が、公園以外にもまちなかにあった。
 ところが、土手や空き地、農地が次々にすがたを消して行き、唯一残された公園に、それらが果たしていたさまざまな役割が担わされることになった。言いかえるならば、公園が人びとの生活に必要になってきたのである。ところが、自由な遊びのできる場所、自然の残っている場所を希望しても、現行の公園制度にのっとった公園は、その要求に十分に答えることができない。そこで、住民みずからが、希望する公園の実現に向けて動きださざるをえなくなったのである。
 行政にも、量的にはある程度充足した公園を質的にどう高めるかという問題が起きてきた。また、公園数の増加とともに増大してきた維持管理の負担を軽減する必要から、維持管理への利用者の参加が考えられるようになった。まちづくりの分野では「住民参加」が計画手法のひとつに考えられるようになり、まちづくりの一貫として住民の公園計画への参加の考えも生まれた。
 ここに、参加が現実味をおびてきた現状がある。その結果、住民からの働きかけで、今までとは異なる新しいタイプの公園がいくつか生まれてきた。
トップページへ