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宮沢賢治と植物の世界

【内容紹介】本書「序・植物を愛した賢治の一生」より


 小学生のころから、鉱物採集や植物採集が大好きだった宮沢賢治は、盛岡中学の二年生(1910年・明治43年)になったとき、「植物採集岩手登山隊」に参加して、はじめて岩手山に登りました。引率した博物(注・いまの理科)受け持ちの山県先生は、途中でなんどもなんども生徒たちの列をとめ、山麓から高原へと展開する山の植物について、実地の指導をしたといわれます。これを契機として、すっかり岩手山の魅力にとりつかれた賢治は、そののち、学生時代だけでも三十数回の岩手山登山を試みました。いきおい、石や土や植物への関心が深まっていったであろうことは想像にかたくありません。
 1912年(大正2年)、盛岡高等農林学校(注・いまの岩手大学農学部)に進んだ賢治は、こんどは学問として、本格的に、土壌学・地質学・植物学などを学び、やがて得業論文(注・いまの卒業論文)として、「腐植中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」というテーマにとりくみました。卒業後、研究生として母校に残った賢治は、さっそく、郡役場の委託を受け、稗貫郡の土性・地質調査にたずさわります。そのくわしい報告書のなかでも、とりわけ、杉林、赤松林の成長と地質との関係を論じた部分がユニークでした。
 かの“伝説的”とさえいえる“東京出奔”というできごとを経て、賢治は花巻農学校(注・いまの花巻農業高等学校)の教壇にたちます。そしてここでも賢治は、土壌・地質・鉱物・気象・農業などとともに、植物学の教師でもありました。「植物医師」という稲の病気をテーマにした劇を創作して生徒たちに上演させたことや、みずから“イギリス海岸”と名づけた北上川の岸辺で、生徒たちといっしょに、胡桃の化石採集に興じた日々を、賢治は生涯忘れえぬおもいでとしていたようです。しかし、やがて、その教師の職を辞し、
  陽が照って鳥が啼き
  あちこちの楢の林も
  けむるとき
  ぎちぎちと鳴る汚い掌を
  おれはこれからもつことになる
と歌って、みずから農耕生活にはいります。そして、「羅須地人協会」を設立して、農村青年たちに教えた学問の分野も、じつは「土壌学・地質学」や「農学・植物学」にかかわるものであったことが、のこされている数十枚の“教材絵図”からもうかがわれます。さらに、テキストとして使った、賢治著述の「植物生理要綱」は、現在の水準にてらしても、りっぱな内容のものでした。
 また、賢治は、郷土の町のためにもつくしました。とりわけ、花巻温泉の街路樹や南斜花壇、花巻病院の花壇の設計にあたった話はあまりにも有名です。そのころ、つねにからだから離さなかったといわれる「メモフローラ」ノートや手帳には、いったい何種類の花や草の原語名が記されているでしょうか。賢治の植物への造詣の深さがしのばれます。
 晩年、そのもてる学問・技術のすべてをいかして農作指導に献身した賢治は、その過労もあって、ついに病に倒れてしまいます。そして、1933年(昭和8年)9月21日、賢治は37歳の若さで、その生命の炎を燃やしつくすのです。
 このようにみてくると、賢治の生涯は、まさに、自然とともに、植物とともに息づいたものだったといっても過言ではないでしょう。そして、それだからこそ、「賢治童話」に、いつでも、樹や花や草が、うつくしく、しかも生命にみちあふれたすがたで登場しているのだ---といってよいでしょう。
【内容紹介】本書「あとがき」より

 著者の一人(宮城)が、さきに宮沢賢治の地学徒としての側面をえがいた小著を上梓したところ、賢治研究家として著名な堀尾青史氏が、ある新聞に書評を寄せてくださった。しかもその結びには、「こうなるとつぎに登場願いたいのは植物学者による解明だ。このほうも面白いにきまっている」とお書きになっていたのである。
 それからまもなく、はからずもこの仕事にたずさわることになった植物学徒が、著者のもう一人(高村)ということになる。2人は、この2年間、たがいに協力しあって、「土と植物」に生きた賢治の実態を追ってきた。そして、その調査・研究がすすむにつれて、とりわけ、賢治と植物学とをむすぶ多岐かつ多量の資料がのこされていることに、あらためておどろきを感じた。
 こんにち、まだまだ、それらの資料を十分にさばききっていない状態だが、とりあえずここに植物学徒としての賢治の識見と業績のアウトラインをまとめることができて、このうえない喜びでいっぱいである。なかでも、賢治の「花壇遺跡」をはじめて確認しえたことや、埋もれていた「教材用絵図」の学問的内容と意義とを、一部とはいえ、はじめて世に出すことができたことを無上の光栄に感じている。
 つたない小著をとおして、読者のかたがたに、賢治が「真の地学・植物学徒」であったことと、それらの学問のすべてを、農民や町民のためにやくだたせ、そのうえ、文芸作品にさえ、うつくしく、意義ぶかく昇華させていった生涯であったことを、すこしでも知っていただけたら、こんなにうれしいことはない。
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