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土門拳を撮る

【内容紹介】本書「情に厚みを持った人---剛気と優しさと  佐多稲子」より


 仕事中の土門さんと室生寺で一日いっしょに過した。手押車に乗せられて走る土門さん、鐙坂を、助手の青年に負ぶさって馳けあがる土門さん、愛らしい五重の塔を目に据えて、不自由な手でシャッターを切る土門さん、そんな仕事中の土門さんを見た。そんな仕事の間、土門さんは一度も、苛立つ表情を見せなかった。
 平等院の屋根の鳳凰が走る、仏像のすべてが走る、そう言って私に、写真という仕事の感覚を話してくれた土門さんである。仏像が走る、と聞いて、その一瞬を追うカメラの目のきびしさをおそろしいほどに想像したものだが、最後の室生寺の仕事での土門さんは、一度も急いた気配や、苛立つ表情をしなかった。人の背に負ぶさって馳けるしかない病中ということを、自分の胸にかっきりとおいているかに、それは見えた。それも土門さんの情の厚さとして、私には見えたのである。
 助手の青年の土門さんに対するまるで母親のような世話に私が感動をした、と言えば、土門さんはそれを助手の青年に自分で伝える、という心配りさえ示して、そして自分は終始、穏和に、たのしげな表情をしていた。それは、剛気な土門拳の合せ持つ、謙虚なほどのこまやかさとして私の胸に残った。
 伝説ふうにさえなっている土門拳の仕事中の鋭さ、執拗さとも、それは別物ではないように私には見えた。剛気な土門さんの合せ持つこの優しさ、こまやかさは、室生寺での一日の印象ではない。情の厚さというものは優しさに根ざしている。眼光鋭い土門さんだが、私の見る土門さんは口辺いつもあたたかい微笑みをおいていた。筑豊の子どもたちに寄せた土門さんの心情もそういうものであったろう。そして土門さんは、筑豊の子どもたちのあの現実を、日本の中に持つ現実としてとらえたのであったろう。
 室生寺でいっしょになったとき私の友達のひとりが、一輪草などの野の花を摘んで小さな花束にし、それを土門さんに捧げた。土門さんはそのとき、これからは野の花を撮ろう、と今後の計画のひとつのように言われ、私たちは土門さんによって表現される野の花の美しさを心に描いて弾んだのであったが、そういう思い出も今は辛い。病床の土門さんを見舞うとき、私はひとり胸の中で語りかけるしかないのである。
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