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530億匹の闘い ウリミバエ根絶の歴史

【内容紹介】本書「あとがき」より


 いまでも那覇に行けば、だれでも巨大なウリミバエ工場を見ることができる。しかし、これがどのような経緯で建設されたのか、また現在のようにニガウリやマンゴーを、沖縄から自由に買って帰られるようになるまでのいきさつを知る人は、年々少なくなっている。
 その長い物語を、若い人たちになんとか残しておきたいというのが、私の年来の願いであった。また、環境保全と両立する害虫防除法として、不妊虫放飼法が実現するまでの道のりが、けっして平坦なものではなかったことも、多くの人に知ってもらいたかった。
【内容紹介】本書「プロローグ」より

 1992年の秋、私は沖縄県那覇市の繁華街、国際通りでタクシーをひろった。
 「農業試験場へ……」と頼むと、車は観光客でにぎわう大通りを抜けて、沖縄の古都首里へむかう坂道を登っていく。途中で右手に曲がり、谷沿いの道に入ると、左右には緑濃い亜熱帯の木々の間に、赤瓦や白いコンクリート建ての家が見えてくる。
 沖縄はこの年で、日本に復帰してから20年になる。それを記念して、太平洋戦争で徹底的にこわされた首里城を復元し、歴史公園にする計画が進行し、いまタクシーが走っていく道路も歩道を白い石畳にする工事が急ピッチですすんでいた。
 やがて行く手の小高い丘の上に、古いコンクリート3階建ての沖縄県農業試験場が見えてきた。その裏手には、谷をへだてて、窓の少ない、6階建てかと思えるほどの高さの建物が建っている。
 そのとき、タクシーの運転手さんが話しかけてきた。
「あの工場のような大きい建物はなんでしょうね。いつも気になっているのですが、お客さん、知りませんか?」
「あれですか。ウリミバエという野菜の害虫を育てる工場ですよ。そのハエを退治するために、たくさん殖やし放射線をあててから、外に放してやるのです」
「へえー、害虫を退治するために害虫を殖やすんですか。どうも、よくわかりませんねえ」
 首をひねっている運転手さんにそれ以上説明する間もなく、車は試験場に着いてしまい、話はそこで終わったのだが、じつは私はこの工場の建設に深くかかわってきた者である。
 沖縄が日本に復帰した1972年の6年後にあたる1978年から5年ちかく、私は沖縄県農業試験場に勤め、ウリミバエ退治の仕事にたずさわってきた。この工場が完成すると同時に沖縄を離れはしたものの、その後も何回となく、この日のように工場を訪れては、仕事のすすみぐあいを見守ってきたのである。
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