![]() | ソニア・シャー[著] 夏野徹也[訳] 3,200円+税 四六判 384頁 2022年10月刊行 ISBN978-4-8067-1642-6 2020年ライブラリー・ジャーナル誌BEST BOOK選出(サイエンス&テクノロジー部門) 2020年パブリッシャーズ・ウィークリー誌ベスト・ノンフィクション選出 地球上の生物は、常に動いている! 季節ごとに渡りを繰り返す鳥や昆虫、気候変動で生息地を変える動植物、 そして災害や紛争で移動を繰り返す人類。 生物はどのように移動し、繁栄・衰退してきたのか。 その移動は地球環境にどのような影響を与えてきたのか。 彼らの移動は妨げるべきものなのか。 地球規模の生物の移動の過去と未来を、 気鋭の科学ジャーナリストが、 生物学から分類学、社会科学的視点もふまえた広い視野で解き明かす。 ――――― [原著書評より抜粋] 絶えず移動している私たち人間を素晴らしく独創的に活写。 ――ナオミ・クライン(ジャーナリストで作家。『ショック・ドクトリン』の著者) 移民・移入・侵入種に関する誤った物語を暴き、 ヒトの遺伝子には移動しようという他の生き物と共通の衝動が書き込まれている とするすばらしい研究。 ……対象をあくまでも追跡する推理小説であり報道記事であるこの作品は、 著者シャーを世界の果てまで、また歴史の彼方まで連れ出す。 ……話を巡らせながら、ヒトがなぜあちこちへ動き回るのかを語るこの本は ……数ヶ月後の予言も、数年後の予言も等しく的中させそうだ。 なぜなら、本書は何が人類を移動させるのか、 そして、こうした大量移動はより多数が定住しているコミュニティや国家に利益をもたらすのか、 という二つの疑問を発しており、 これらの疑問は私たちの地政学的活動をすでに具体化しつつあるのだから。 ――ガーディアン紙 思慮深く示唆に富む移動擁護論。 ――サイエンス誌 読者を夢中にさせる本書は、ヒトだろうとヒト以外だろうと 今日の移動は地球規模の危機を表すのだという概念に逆らい、 歴史や取材や広範な科学研究をよりどころとして、 移動は「普通に続いている現実」であることを示している。 ――ニューヨーカー誌 反移民政治家たちが不必要で残酷な防壁を造るために データをゆがめ、また誤用している、 そしてまた、私たちが社会的、政治的、生態学的に 大幅に変化した世界に直面するのは避けようがないに違いない、 そうシャーが主張するのはもっともだ。 その結果変化したコミュニティは単に変わるだけでなく、 多くの場合温暖化する世界によりよく適応して繁栄することだろう。 ――ネイチャー誌 |
ソニア・シャー(Sonia Shah)
気鋭の科学ジャーナリストで、多くの優れた書を著しているほか、
『ニューヨーク・タイムズ』紙、『ウォールストリート・ジャーナル』紙など一流紙に寄稿し、
また大学やテレビでの講演活動も積極的に行っている。
TEDでの講演「Three Reasons We Still Haven't Gotten Rid of Malaria」は世界中で100万人以上が視聴している。
おもな著書に『「石油の呪縛」と人類』(原書房)、『人類五〇万年の闘い――マラリア全史』(太田出版)、
『感染源――防御不能のパンデミックを追う』(集英社)などがあり、数々の賞を受賞している。
メリーランド州ボルティモア在住。
夏野徹也(なつの・てつや)
金沢大学大学院理学研究科修了。
理学修士、医学博士。専門は細胞生物学、微生物学。日本歯科大学定年退職後に翻訳を始める。
訳書にソニア・シャーの『人類五〇万年の闘い――マラリア全史』(太田出版)のほか、
ポール・グリーンバーグ著『鮭鱸鱈鮪食べる魚の未来――最後に残った天然食料資源と養殖漁業への提言』(地人書館)、
アダム・ロジャース著『酒の科学――酵母の進化から二日酔いまで』(白揚社)、
ドナ・ジャクソン・ナカザワ著『脳の中の天使と刺客――心の健康を支配する免疫細胞』(白揚社)がある。
第1章 新天地へ向かう生物たち
定住性の蝶の移動
移動と気候変動
人々の移動
移動は大惨事をもたらすか?
「私」へ至る移動史
故郷から脱け出す
南北を隔てるダリエンギャップ
歩いて砂漠を越える
第2章 あおられた難民パニック
冷戦終結後の新たな脅威
「難民危機」への反応
ホコリタケ化したメディア
アメリカに広がった移入者パニック
影響の検証――健康と経済
民衆に流布する脅威
ハイチから来た人々
第3章 生殖器官に基づくリンネの分類
分類学者の誕生
探検家が描いた世界
リンネの不快な探検旅行
革新的な分類学
移動と適応を捉えた博物学者
聖書の解釈と生物の移動
人類分類法
幻のシヌス・プドリス
第4章 異種交雑は命取り
二人の「科学的人間」
「人種科学」に挑んだダーウィン
「メンデルの法則」の再発見から優生学の誕生へ
人種間交雑――懸念を持つ科学者と歓迎する大衆
人種間交雑による悪影響の研究
移民排除の法制化
要塞国家アメリカへ
第5章 自然界の個体数調整
個体数サイクルの謎
レミングの集団自殺
「ガウゼの法則」
イギリス軍が捉えた鳥の移動
侵入生物学の誕生
集団自殺の真相
第6章 人口増加を抑制せよ
閉鎖環境下の動物
生物学者がインドで見たもの
人口抑制運動の始まり
『人口爆弾』
人口抑制の実践
ミツバチを真似よ
人口抑制運動への反発
人口増加のメリット
要塞国家の再建
リンネ式自然観の復活
第7章 移動する人--ホモ・ミグラティオ
太平洋の島々へ
コンティキ号の冒険
人種の起源論争
分子時計が発見したこと
人種の境界を遺伝学に求める
古代人のDNAが明かした真実
ミクロネシアの伝統的航海技術
第8章 野蛮な外来者?
渡り鳥とアシ
新たな学説――大陸移動と分断分布
ハワイの外来生物
動物の移動を追いかける
大海を渡る生物たち
明らかになった移動の実際
新来者と生物多様性--ハワイのその後
花粉が示す太古の移動
第9章 移動を引き起こすものと移動が引き起こすもの
森の中の国境
環境変化が引き起こす移動
移動と遺伝的多様性――チェッカースポットの再出現
なぜ人間は移動するのか?
気候変動と移動
移動者を阻む政策
移動が進化を促す
移住者がもたらすもの
次なる大移動
第10章 壁
辿り着いた居住者たち
生存を妨げる障壁
ギリシャの難民キャンプにて
政府の言い分
さらに北へ
外国人恐怖症
暴走する免疫防御手段
結び 安全な移動
謝辞
訳者あとがき
参考文献
原註
索引
2年前、私は東ボルティモアの荒れ果てた地域に建つアパートの2階の狭苦しい一室で、ソフィアとマリアムに会った。地元のNGO事務所が子どもたち共々、この二人の女性を住まわせたところだ。私は地方難民事務所の新人ボランティアとして、援助が必要な難民家族に関するファイルの山を手渡されていた。ファイルを一つ取るように言われ、私は彼女らを選んだのだ。私たちは携帯電話でつながった地元の通訳を通して話し合った。マリアムは徒歩でエリトリアから逃れ、国境を越えたばかりのところにある難民キャンプに着いた。エリトリアの軍事政権の迫害を逃れ、ほとんどの時間をいくぶん漫然とうろついて過ごした。彼女はほっそりしていて、ふざけたがり、よく笑う。だが難民キャンプの生活は、彼女を社会の生産的活動から締め出した。彼女が学校へ行くことはなかった。仕事に就いていなかった。キャンプにいた頃のおもな思い出は希望者が集まってするサッカーだと答えた。
ソフィアがエリトリアを出たあとの経路は北へ向かってカーブを描いた。彼女はスーダンからカイロへの道をとり、そこでは社会の片隅でぎりぎりの生活をした。首にかけた鎖にぶら下がる小さな十字架は彼女がよそ者だという印であり、エジプト社会の主流から彼女を締め出すものだった。彼女はホテルの掃除をする仕事を得た。しかし重いものを持ち上げる仕事で背中を傷めた上、手術の失敗のせいで健康を失い働けなくなってしまった。さらにもう一つの不運が襲った。カイロで出会った逃亡中のエリトリア人の恋人との間にできた幼い息子は左の腎臓にがん性腫瘍があると医者が診断したのだ。
しかし、マリアムとソフィアには安定した将来への道があった。カイロおよび難民キャンプ在住のエリトリア人は、国連難民機関の地方事務所を通して難民資格を申請できたのだ。難民機関は彼らの顔をスキャンし、指紋と経歴データを採取した。係官が容認できると判断すれば、どこか別の国へ彼らの事案を紹介してくれるかもしれない。その国は彼らの経歴と素性を独自に審査した上、無害で適格だと判断するかもしれない。彼らは自分たちの家庭を作り日々の営みを開始できる場所まで移動することが許されるかもしれない。毎年、この機関は難民だと承認したおよそ2600万人のうち、約10万人を再定住させている。
マリアムもソフィアも申請した。
二人は難民認定を受けるまでおよそ10年待った。国連難民機関は二人の申請を受理し、アメリカ難民再定住事業の係官に二人の事案を紹介した。その事業はその後の居住を許可してくれた。二人はそれぞれに、荷物をまとめ、新居へ移るため飛行機に乗ったのだ。
仕事を見つけたいと二人は言った。子どもたちに教育を受けさせたかったのだ。背が高く、母親の膝の上で用心深さを見せるソフィアの息子は、純真で態度が真面目だ。マリアムの娘は正反対で、顔をしかめて大げさな表現をし、私の持ち物を触り、うまく取り入って私の膝の上に乗ってくる。
カーペットを敷いた床にいっしょに座って彼女たちの今後の見通しについて思案していると、マリアムが船内調理室のような自分たちの小さなキッチンからきらきら輝いているイチゴ、小さなリンゴの薄切り、それにオレンジの薄切りを載せたお皿を持ってきた。エリトリアの発酵させた平べったいパン、インジェラと、その上にスパイスの利いたレンズ豆とカレー味のジャガイモを盛った大皿の周りに、子どもたちがひもじそうに寄り集まった。
マリアムとソフィアはでたらめな英単語を二、三知っているだけだった。言葉を使う仕事をする技能はなかった。二人は指導者たちから「けだもの」「厄介者」、あるいはもっとひどい呼び方をされる社会の難民だった。そしてとても貧困に苦しみ、人種によってとても厳しく序列をつける街の黒人女性だった。貧しい黒人居住区に住むことは余命を30年縮めるのと同義だった。彼女たちは二人のよちよち歩きの子の面倒を見なければならなかった。車の運転はできなかった。誰が雇うだろうか。たとえ誰かができたとしても、二人はどうやって職を得ることができるだろうか。
彼女らには支援を頼れる家族がほとんどいなかった。子どもの父親たちは何千キロも彼方に住んでいた。マリアムのパートナーはドイツに再定住していた。ソフィアの方はスウェーデンだ。若い女性の写真が、額に入れられ小さな棚の上に置かれていた。エリトリアに住んでいるソフィアの娘だ。ソフィアがエリトリアをあとにしたとき、その娘はよちよち歩きの子どもだった。今ではティーンエイジャーだ。ソフィアは何年も会っていない。森の中を通る高速道路のように、国境は彼女の家族を断ち切り、大陸を越えてばらばらに分解してしまったのだ。
先日、12月のとある夕刻に、クリスマスの明かりを見にボルティモアの繁華街へ二人を連れていった。車を停めたあと、氷点下の気候の中を数ブロック歩かなければならなかった。その間二人は、教会で特別な食事を摂り、近所を訪問して回って祝うエリトリアのクリスマスの様子を話してくれた。そのあと、私が二人に見せようと連れてきたアメリカの過剰な電飾が目に入ってきた。特にこのブロックでは、地域の人々がピカピカ光るイルミネーションを、窓やポーチや屋根から、並んだ家々の間や狭い通りを横切らせて向かい合った家々をつないでいた。小さな前庭には、巨大な電飾付きのキャンディケインや、まるまる太った腕を揺り動かしているプラスチック製の雪だるまや、ビールの空き缶と古いホイールキャップでこしらえた彫刻のようなクリスマスツリーを詰め込み、ツリーの下にはピカピカの包装紙の贈り物が置かれていた。サンタクロースの衣装を着た女性が、この壮観を眺めに集まってきた観客にクッキーを手渡していた。通りの端では子ども用防寒着を着た赤ん坊をおんぶしたカップルたちが、フェルト製のトナカイの衣装を着た男性の隣に立って写真を撮ろうと列を作っていた。
アパートへ戻る途中、車の中で二人は言葉少なだった。「きれいよ」、ようやくソフィアがうなずきながら言った。「アメリカのクリスマスは」と。私はどう言ったらよいかわからなかった。甘ったるい赤と白の豪華絢爛(けんらん)ショーが私の未熟な文化的センスを刺激した。あれが彼女にとって意味があったとは想像もできなかった--私にとってはまるで意味をなさなかった。私は暖房を強めた。マリエルのつま先はかじかんでいた。黒い薄っぺらなスニーカーの下に靴下も履いていなかったからだ。
数キロ先の彼女たちの地区へ着くまで、私たちは無言で車を走らせた。二人が仕事を見つけるには数ヶ月かかった。マリアムはある産業用のコインランドリーで夜間の仕事をしている。ソフィアはカフェテリアの掃除をしている。私道に入っていくと彼女たちの住むビルが暗がりから現れた。
その夜の珍奇さ、将来の不確実さ、思いも寄らない目的地へ自分を連れてきた旅路の不安定さにもかかわらず、ソフィアは自分のビルの光景を見上げ、まるで予期していなかったかのように自分自身に向かってそっとつぶやいた。「わが家だわ」
移住者たちが横切ってずたずたになった自然環境は、人々と野生生物、両方のために回復できる。
孤立した公園や保護区の境界を延ばすのではなく、私有地、牧場、農場、公園をつなぎ合わせて、動物たちが安全に移動できる広く長い回廊にしようという新たな自然保護活動が行われている。たとえばイエローストーン・ユーコン・イニシアティヴは、カナダ北部から130万平方キロ以上南方へ延ばし、その区域全体で野生生物が移動しやすいように管理すべく、何百もの保護団体を集めた。同様の野心的プロジェクトが、メキシコからアルゼンチンまで14ヶ国の数百万平方キロに及ぶジャガーの生息地を保護しようと計画している。自然保護論者たちは少なくとも世界の20ヶ所の保護すべき地域を特定してきた。それにはタンザニアのイースタン・アーク山地やブラジルの大西洋岸森林が含まれる。これらの地では同様な緑の回廊によって、ばらばらになっている保護区を野生生物が自由に動き回れる2000平方キロ以上の連続した森林につなぎ合わせることができるかもしれない。
野生生物のために作られた新たなインフラによって、彼らは人間が作った障害物を越えて移動しやすくなるだろう。カナダではグリズリー、クズリ、ヘラジカがトランス・カナダ・ハイウェイの上と下に架けた野生生物用の橋を通って歩いている。オランダではシカ、イノシシ、アナグマが、彼らのために特別にデザインされた600の回廊のおかげで、線路、工業団地、複合スポーツ施設を横切って移動している。モンタナ州ではアメリカクロクマ、コヨーテ、ボブキャット、ピューマが州間高速道路を越えて建設された40以上の横断構造物を通って歩いている。ほかの場所では自然保護論者たちがカエル用のトンネル、リス用の橋、魚類用の階段式魚道を作ってきた。彼らは鳥や蝶が頭上を過ぎるときにくつろげるように、緑溢れる生きた屋根を取りつけた。こうした活動は一体となって、広大な地域を包含する野生生物用の境界のない回廊を作り上げ、野生生物用の州間ネットワークを創出できるだろう。
移動の能力が万能薬でないのは言うまでもない。生息域が消滅して分布域を移す生物種は、危険にさらされることが少なくなるよりもむしろ多くなる。ロシアでは、ハーレムを作れないタイヘイヨウセイウチの雄たちが、海氷が融けたので今では遠方の岩礁海岸まで泳いで集団を作っている。2017年夏、巨大な生き物が岩だらけの崖のてっぺんに登ってへとへとになり下の海岸に落ちて死ぬのを、野生生物の映画製作者たちが観察した。分布域を移すことに成功したものたちは「侵略者」として非難されるかもしれない。望まれざる侵入者として非難されてきた野生生物には、ベトナムや中国からやってきてハワイにうまく定着し、今は絶滅の危機にある淡水ガメ、カリフォルニアやメキシコで絶滅の危機にあってオーストラリアやニュージーランドに辿り着いたモントレーパイン、カナリア諸島に着いた絶滅危惧のバーバリシープ、カリフォルニアで絶滅する前にはアメリカ西部全般に分布していたスズキ目の魚、サクラメントパーチなどがいる。
それでも、現在極地へ向かって、また高地へ向かって移動中の何千もの生物種にとっては、移動は気候が混乱する新時代で生き延びる最善の試みなのかもしれない。
同様に人々が地上を安全に移動する世界を夢見ることができる。気候が変動したり生計が立ちゆかなくなったとき、移動しようとしている人々が国境監視員に追い立てられたり、海に沈んだり、砂漠で死んだりするリスクを負わなければならないことはない。現在武器を携行した監視員や有刺鉄線や境界壁だらけの境界は、もっと穏やかでもっと通過しやすく、たとえばマサチューセッツ州とニューヨーク州、あるいはフランスとドイツの境界のようにできるかもしれない。安全で、秩序ある、正規移動のための「国連グローバル・コンパクト」などの構想では可能な枠組みを提案している。この協定では、新たな生計を模索している移住者のためのより合法的な経路を創設するよう、各国に呼びかけている。各国が移住者に関するデータを収集、かつ共有し、移住が整然と秩序立って行われるよう、移住者に身分証明書を与えるよう求めている。これには移住者があとにした地へ資金や支援を送りやすくする方法も含まれている。また、移住者の拘留を逆戻りの第一段階ではなく、最終的方策への指標に変えるよう呼びかけている。
この協定が想定する通過可能な境界が、新入者が現地の法律や習慣に従う責任を免除したり、現地の文化の特殊性を消し去ったりすることはないだろう。むしろ、移動を安全な威厳ある、そして人道にかなったものにするだろう。194ヶ国の国連加盟国のうちの163ヶ国がこの自発的、非拘束的協定を採用している。2019年、ポルトガルが自国の移民政策にこれを取り入れた。
人間の移動を妨げる武装国境は、今日では神聖不可侵なものではない。これは私たちの文化や歴史にとって必須のものではないのだ。ヨーロッパの人々が自国の周りに国境を引き始めたのはほんの数百年前のことだ。インドとパキスタンの国境を策定したイギリスの法律家はわずか数週間で区画した。大いに争われたアメリカとメキシコの国境でさえ、数十年前まではほとんど通過可能だったのだ。歴史全体を通して、たいていは王国や帝国はあいまいな国境を持ったまま興亡し、文化や人は次代へと徐々に変化していった。国境が開いたり閉じたりしたのではない。まったく存在しなかったのだ。
もし、転変常ならず資源が不均衡に分布するダイナミックな惑星上で生活するのに不可欠なものとして移動を受け入れるならば、私たちが進むべき道はいくらでもある。とにかく移動は否応なしに同じ割合で続くだろう。ソフィアやジャン=ピエールやハクヤールのような人々は移動し続けるだろう。私たちはこれを大災害とする考え方を続けることができる。あるいは、私たちの移動の歴史と、自然界における蝶や鳥のような移動者としての私たちの立場を取り戻すこともできる。移動を難局からその逆、解決へと転換させることができるのだ。
私たちは突き刺すような日差しの強い日に、メキシコはティフアナ市のわだちのできた未舗装路を、壁を探しながら車を走らせている。
粋に塗装された外観と窓の外の陽気な植木箱を備えた家々の並ぶティフアナのほかの地域とは違って、メキシコとアメリカの国境の壁に隣接したこの地域には不吉な気配がある。家々はシャッターを下ろしている。この地域は麻薬密売組織のボスたちが殺した死体を酸で溶かすところとして悪名高い。壁はそれ自体が死を表現している。壁には手描きの十字架が何百も散在している。そこを乗り越えそこなった命を記録しようと地元の人々が描き残したものだ。
私は壁の反対側を見ようと古タイヤの山によじ登る。このぐらつく足場からは、東から西へ何キロも進んで、谷へ下ったあと彼方の丘の頂を越えて消えてゆく壁の長さが見て取れる。その前面に立てられた背の高い石版が見える。アメリカの大統領が建設しようと計画した新しい国境の壁の試作モデルで、ストーンヘンジの狂気じみたバージョンのように南に向かって一列に並んでいる。
壁はあたり一面の山地に溶け込んで無意味なものになっている。山々は北アメリカ大陸の西海岸をメキシコ南部からアラスカ北部まで何千マイルも延びて、数ある野生生物の中でもとりわけビッグホーン、ピューマ、チェッカースポットが気候変動に伴って北方へ、あるいは高地へ移動するための天然の通路を形作っている。国境とその防壁があって、何世紀も侵入者だと非難され、異常な国境往来者だと恐れられても、お構いなしに移住者はやはりやってくる。
どこか遠いところでチェッカースポットが蛹(さなぎ)から羽化する。オレンジ色とクリーム色と黒の斑点のある繊細な翅が羽ばたき始める。私が見上げている波型の金属の壁は、彼らが常食している砂漠性植物や花々の上、わずか180センチないし240センチの高さしかない。チェッカースポットは彼らが常食している砂漠性植物や花々の上、地上近くわずか180から240センチの高さを旅する。
時至れば、彼らの華奢な体は空中へ舞い上がるのだ。
訳者にとってソニア・シャーの著書の翻訳は2冊目である。前著「The Fever, how malaria has ruled humankind for 500,000 years」(邦題『人類五〇万年の闘い--マラリア全史』太田出版)を訳出して、彼女の真実追究に対する驚異的なエネルギーと、常に弱者の側に立つ姿勢にすっかり魅了された。本書でもそれらは遺憾なく発揮されている。
旧約聖書によれば、神は天地創造3日目に植物を、5日目に魚と鳥を、6日目に獣と昆虫と人間(アダム)を作った。神は無謬なのだからその被造物も完全無欠であらねばならない。人々はそう考えた。しかしそれだけでは終わらなかった。生き物とその生息地との関係も神聖にして不可侵だと考えた人々がいた。なぜなら、全能の神はもっともふさわしい場所にその生き物を住まわせたに違いないからだ。そしてその当然の帰結として、生き物は移動せず、もし移動すればそれは神の意志に逆らう不吉な行ないだと考えた。この考えは近代科学が勃興し始めても、いやそれ以後も欧米を中心に根強く生き残った。
二名法を考案したカール・フォン・リンネもそれを疑わなかった一人であり、それをもとに、つまり採集された地に基づいて生物の命名・分類を行った。しかしすでに大航海時代が始まっており、世界各地から珍奇な動植物や人間がどんどんヨーロッパへ持ち込まれていた。これらは地球上のはるか僻遠の地からもたらされたものだ。ヨーロッパの近くにあったに違いないエデンの園のあたりで、神はすべての生き物を作ったのだから、そんな遠くの地に生き物がいることに説明がつかなかった。生き物は移動しないのだから。
そして悩みのタネがもう一つあった。ヨーロッパ人とはかなり見かけの違う人間があちこちで発見されたのだ。人類はみなアダムの子孫だと教会は言う。しかしリンネの言う通り種しゅは不変なのだから、最初からこんな妙な姿だった人間を自分たちヨーロッパ人の兄弟だと言えるのか。また、動植物と同様、そんな遠隔地になぜいるのか? ひょっとしたら移動したのか?
しかし、もし生き物がそんなに遠くまで移動したのならどんな手段で? すべての種は共通の祖先から分かれたとするダーウィンは、生物は自ら徒歩や飛翔によって移動し、それでは越えられない海洋などでは、風や海流に乗り、あるいは鳥の足にくっついて移動したのだと考えた。適切な生息地に到達するにはきわめて公算の低い偶然に頼る手段であったろうが、繰り返し行われることで可能だとした。
この考えは簡単には受け入れられず、生物移動の問題が紛糾していたところへ、明快な解答を与える新説が登場した。各大陸はもともと巨大な一個の陸塊であったが、分かれて現在の姿になったとする大陸移動説をウェゲナーが提唱したのだ。そこで、生物たちは自ら移動することなく、分裂して移動する大陸に乗っているだけで現在の地に分布したのだとする説が生まれ、ダーウィン説を完全に打ち砕いた、かに見えた。
しかしその後、分子生物学の発展を見、分子時計を用いて計測すると、南米のサルは大西洋がアフリカ大陸と南米大陸を分けたずっとあとになってアフリカのサルと遺伝的に分かれたことが判明した。つまり、南米のサルたちは移動中の大陸にただ乗りしたわけではなかった。彼らは自ら移動したのだ。
また、機器の発達や機会の増加に伴い、生物たちが驚くほど遠方へ移動するという報告が多数寄せられた。そして、生き物たちは現在動き回っているだけでなく、地球上に起こった気候や地殻の変動に対応して絶えず移動していたことがわかった。
さらに、遺伝子解析によって多くのことが明らかになった。たとえば、人類は絶えず移動して離合集散を繰り返し、きわめて均一な単一種になったことが認められた。これまで各人種を亜種や別種とする論があり、それが容易に人類の序列、そして差別を導き、奴隷制や植民地政策を正当化するもとになった。また、アメリカ合衆国への移民が人種によって制限を受ける根拠になった。
第二次大戦中、ナチ政権はユダヤ人抹殺に飽き足らず、ドイツ国内から外来植物を一掃するよう通達を出した。植物の民族浄化だと言って嘲ることはできない。生物の移動を否とする考えは、20世紀の終わり頃からエコロジー運動の中枢に座を占めるようになり、侵入生物学なる学問が誕生して多くの国々で外来生物への非難が唱えられた。アメリカでは2001年9月11日のテロ以降、侵略生物までをも警戒することになった。我が国でも外来生物による被害とその根絶が喧伝されて今日に至っている。
しかし移動する生物による損害を生態学者たちが再検討したところ、新たに侵入した生物種の10パーセントだけが新天地に定着し、さらにその内の10パーセントだけが在来種を脅かすほどに繁栄することがわかった。多くの新来種は無害であり、彼らは生物多様性に寄与しているという。また環境に負荷を与えているとしても、それは在来種と同等のものだという。「土着」と「よそ者」という二元論は実情に合わないことがわかったのだ。
野生生物の移動は高山や大洋による自然障壁だけでなく、人類による都市や高速道路などによって妨げられている。彼らの移動は、たとえばつがいの相手を得るなど、種の存続に不可欠なものだ。現在いくつかの国では、生息地を広げるのではなく、既存の生息地同士を人間の手でつなぎ、彼らがより広く移動できるよう整える試みがなされている。
現代の人類の移動は、戦争、弾圧、飢餓、あるいは貧困などから逃れる難民によるものが中心であろう。こういう事象は歴史上枚挙にいとまがなかったが、現代のそれとの違いは移動先に障壁があるかないかである。182ページの図にあるように第二次大戦後、世界の至るところに膨大な数の障壁が建設され、難民の移動を阻んでいる。
アジア、アフリカ、中東で発生した難民たちは、旅の途上で命を落とす者も多く、目的地にたどり着いたとしても恐ろしい本国送還や、収容所あるいは市民生活での差別と迫害が待っている。こうした残酷な仕打ちは欧米諸国のみの行いではない。我が国の難民認定率の低さは国際社会の非難を受けるレベルであり、収容施設における非人道性はたびたび報じられている通りだ。小松左京の名作『日本沈没』では、国土を失った日本人が世界の国々へ散って生き延びることに希望を託されるが、このような政策を持った国の人間が容易に受け入れられるだろうか。
人々が移動を望むとき、その先に武器を携行した国境警備員や、壁や、暑熱の砂漠や、貧弱なボートで渡らねばならない海が立ちはだかってはいけないし、移入先で差別や迫害を受けてはならない。なぜなら、ヒトも動植物もこれまで移動を繰り返してきて、現在もそうしている。それが本来の有りようなのだから。科学はそう結論づけている。
(後略)
2011〜2013年のアメリカへの移民は経済に574億ドルの損失を与えましたが、移民の子どもたちは305億ドルの、また孫たちは2,238億ドルという桁外れの経済的利益を与えました。
ヨーロッパ原産の外来葦は在来の湿地性植物種と置き換わった一方で生息地の水を浄化し、ロシア原産の外来二枚貝は外来水草の定着を可能にする半面、魚や鳥の餌になります。
あなたは感覚や伝聞に依らない、移動生物がもたらす実際の影響を知っていますか?
本書では、アメリカの気鋭のサイエンスライターが多様な分野の研究者を取材し、激減した蝶の復活の理由やディズニー映画が捏造したレミングの集団自殺、アフリカを出たホモ・サピエンスの移動経路や、移動者・外来種排除の思想や政策立案に至った過程など、様々な事例を丹念に読み解き、生物とその社会が生き延びるための移動の重要性に迫ります。
アメリカザリガニやブラックバス、マングースといった外来種による在来の生態系の破壊ばかりが語られ、移動するものを忌避しがちな日本人には目からウロコの事実がたくさん。
2022年のノーベル生理学・医学賞では古代人類の進化と移動の歴史を解き明かした遺伝学者が受賞。今、注目が集まるテーマであるMIGRATIONについての本書をお勧めします。