![]() | スー・スチュアート・スミス[著] 和田佐規子[訳] 3,200円+税 四六判 416頁+カラー口絵3頁 2021年10月刊行 ISBN978-4-8067-1626-6 2022/1/16(日)読売新聞本よみうり堂欄で紹介されました。 筆者は中島隆博氏(東京大学教授・哲学者)です。 2021/12/18(土)日経新聞読書欄で紹介されました。 筆者は奥野修司氏(ノンフィクション作家)です。 「サンデータイムズ」ベストセラー タイムズ紙、オブザーバー紙「今年読むべき1冊 2020年」に選出 人はなぜ土に触れると癒されるのか。 庭仕事は人の心にどのような働きかけをするのか。 世界的ガーデンデザイナーを夫にもつ精神科医が、 30年前に野原に囲まれた農家を改造した家で、 夫とともに庭づくりを始めてガーデニングにめざめ、 自然と庭と人間の精神のつながりに気づく。 バビロンの空中庭園、古代エジプトの墓に収められた種の意味、 戦争中の塹壕ガーデン、ニューヨーク貧困地区のコミュニティーガーデン、 刑務所でのガーデニングの効果、病院における庭の役割。 さまざまな研究や実例をもとに、 庭仕事で自分を取り戻した人びとの物語を描いた全英ベストセラー。 ――――― [原著書評より抜粋] これまでに類を見ないガーデニングの本だ。資料あり、園芸あり、文学、歴史ありの本書は、 各章で参考文献や素晴らしい着想を示し、魂に栄養を注いでくれる。 ――サンデー・タイムズ(英国) 本書は庭を耕し、植物を育てる特別な喜びに関する人生を肯定する研究だ。 自然とガーデニングが精神の健康に与える影響を、著者が心からあふれ出る言葉で主張する。 神経科学上の研究と園芸療法を通じて症状が回復に向かった患者の記録にもとづいている。 ――ガーディアン 園芸が持っている癒しの効果を賢明で洞察力あふれる著者が雄弁に魂をこめて論じる。 今日の不安な時代に求められている良書。不調の時にどう対処するのか、 読者一人ひとりに適切な展望を示してくれている。 ――ブックリスト 科学としていまだに揺れている精神医学と、太古からあるガーデニングが魅力的に重なり合う。 ――フィナンシャル・タイムズ スチュアート・スミスは科学に裏づけされた洞察力で 自然の持っている癒しの効果を見せてくれる。楽しく読めて、心安らかになる本。 ――ウーマンズ・ワールド 心が躍る、刺激的で、非常に感動的な文章だ。著者は園芸療法の研究を通じて、 私たちがどれほど自然と深い関係にあるのかを明らかにしていく。 そして、自然と切り離されてしまうことが危険なことで、 自然からいかに多くの回復力を得ているか、活気に満ちた思いやりのある言葉で語り、 読者に土に触れようと忠告する。 ――イザベラ・トゥリー『英国貴族、領地を野生に戻す』(築地書館)著者 |
スー・スチュアート・スミス(Sue Stuart-Smith)
著名な精神科医、心理療法士。
ケンブリッジ大学で英文学の学位を取得し、その後医師となる。
国民保健サービス(NHS)に長年勤務し、ハートフォードシャーで心理療法の分野を主導する存在となる。
現在はロンドンのタビストック・クリニックで後進を指導しつつ、ドックヘルス・サービスで最高専門医を務める。
夫は有名なガーデン・デザイナー、トム・スチュアート・スミスで、
2人は30年以上かけてハートフォードシャーに素晴らしいバーン・ガーデンをつくり上げてきた。
和田佐規子(わだ・さきこ)
岡山県の県央、吉備中央町生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。
夫の海外勤務につき合ってドイツ、スイス、米国に、合わせて9年滞在。
大学院には、19年のブランクを経て44歳で再入学。専門は比較文学文化(翻訳文学、翻訳論)。
現在は首都圏の3大学で、比較文学、翻訳演習、留学生の日本語教育などを担当。
翻訳書に『チーズと文明』『ナチスと自然保護──景観美・アウトバーン・森林と狩猟』『宝石──欲望と錯覚の世界史』
『大豆と人間の歴史──満州帝国・マーガリン・熱帯雨林破壊から遺伝子組み換えまで』(以上、築地書館)がある。
趣味は内外の料理研究とウォーキング。
第1章 始まり
ガーデニングとの出会い
自然との対話
庭で心を見つける
喪失からの回復──ワーズワースと妹にとっての庭
自然と家の中間地帯
愛着と喪失──安全な避難場所としての庭
生命を再生する場
第2章 緑の自然と人間の中にある自然
宗教とガーデニング
植物を通して生命の循環につながる──破壊・修復・愛
脳を耕す
変化と再生のメッセージ
園芸療法の始まり
『大いなる遺産』──小さな自然の再生
第3章 種と自分を信頼すること
人を夢中にさせるもの
ほどほどの幻想──学習障害と自尊心と庭
ライカーズ刑務所の試み
犯罪から立ち直る──持続可能なガーデニングは生きる規範に
種を蒔く──未来の可能性の物語
第4章 安全な緑の場所
囲われた安全な場所
植物のもたらす抗ストレス効果
植物の世話に没入するということ
庭の3つの効果──太陽光・運動・土との触れ合い
樹木と復員兵士
ユーカリとの友人関係が人生肯定の助けに
第5章 街中に自然を運びこむ
都市と庭園
心の健康と都市の緑
野生で生きるための集中力
植物は弱いけれど前向きなんだ──優しく導くもの
田舎のネズミと町のネズミ──住環境と精神
第6章 ガーデニングのルーツを探る
人類初のガーデニング
持続可能な共生関係──農耕する生き物たち
庭の起源
パプアニューギニア、トロブリアンドの人々の庭づくりと儀式
狩猟採集民と自然
入植者には見えない生態系
マオリの洗練された園芸
最古の神話に記された庭──古代シュメール
自然界とのギブアンドテイク
第7章 花の力
花を愛するということ
花と昆虫の共進化
記憶と連想
人が花に惹かれるようになったわけ
フロイトの夢判断と花
死を悼むことと春がめぐりくること
生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)
人生を変えたサボテン
第8章 ラディカルな食料栽培
労働者がもたらしたオーリキュラ栽培
町中が食べられる庭──インクレディブル・エディブル
ケープタウンの都市農園
緑の反逆者──フード・デザート(食料砂漠)脱却をめざして
グリーン・ゲリラ──ニューヨークの空き地をコミュニティ・ガーデンに
都市の緑化と犯罪
貧困地区の若者向けのガーデニング
植物が子どもたちをエンパワーメントする
第9章 戦争とガーデニング
西部戦線の塹壕ガーデン
心の幻影に向き合う
祖父テッドの捕虜体験
復員兵士の回復・再建と農業・園芸
第10章 人生の最後の季節
人は死すべき運命にある──生命の連鎖
死と宗教と植物
死の恐怖からの再生
老いと庭仕事
フロイトの花への愛
終生、庭とともにあったフロイト
第11章 庭の時間
庭時間のリズムに従う
庭で自分の時間を取り戻す──燃えつき症候群
心と身体の調和──庭を世話することで自分の感情とつながる
植物の成長と時間感覚の変化
負のスパイラルからの脱却
今を生きる力を引き出す
第12章 病院からの眺め
花や窓の外の緑が治療を助ける──ナイチンゲール
感情移入
窓の外の1本の木との出会い
病院に庭を──普通の暮らしに戻れる場所
園芸療法の庭──利用する人に合わせてタイプの違う庭をつくる
第13章 緑の力
自然の一部としての庭
庭を耕す──人生とコミュニティと環境をつむぎ出す
謝辞
訳者あとがき
索引
原著注・引用文献
庭を耕す──人生とコミュニティと環境をつむぎ出す
ちょうど地球が持続可能でなくなっているように、私たちのライフスタイルも心理的に持続可能ではなくなっている。最近では、全世界で、うつ病が呼吸器系の疾患を抜いて、健康障害や身体障害の原因第1位になった。この上昇がクライメート・グリーフから直結しているというわけではないが、関係がないというわけでもない。問題は深くからみ合っているからだ。生きる力を取り戻すために人々が何を必要としているかを無視するのは、自然が繁栄するのに何をすべきか考えないのと同じ心の在り方の兆候だ。この問題は大地を耕す(cultivate)という意味の核心に直結している。
ヴォルテールの時代を超えた箴言(しんげん)「私たちは自分の庭を耕さなければなりません」というのは、彼の小説『カンディード』の結末だ。250年以上も前に出版された物語は直接現代に語りかけている。『カンディード』は最初の近代的災害と呼ばれたリスボン大地震の直後に書かれた。この地震は、当時広くいきわたっていた文化的な前提を粉々にした。
リスボンの町はそのころ裕福さも人口の多さも世界屈指の都市の一つだったが、歴史上でも最悪といえる地震で1755年に完全に破壊された。地震の揺れが津波を引き起こし、続いて火災旋風が発生し、田園地帯を荒廃させた。災害の傷痕は非常に深く、ニュートン力学が生んだ時計仕掛けの宇宙〔宇宙は神によってつくられた機械式時計のようなものであり、ニュートン力学に従い進行し続けるという考え方〕は順調に進んでいくという、18世紀の考え方を支えていた信念に疑問を呈することとなる。時計仕掛けの宇宙というモデルは、今の私たちにはバカげて見えるかもしれないが、西洋世界の考え方で、機械の普及を比喩として、取り上げているのだ。現代に同じものを求めるとすると、脳をコンピューターに例えるという話だ。そこには機械と自然の間に同様のミスマッチが見られる。比喩というものは強力だ。思考を深めることができるが、それと同様に思考に制限をかけたり、捻じ曲げたりもする。生物圏が危険な状態になったのは、人類が自然に対し生きたシステムとして敬意を表さなかったからだ。そしてその意味で、私たちは時計仕掛けの宇宙という比喩が及ぼした広範囲にわたる結果を見ているのだ。
ヴォルテールは情熱をこめて、完璧な機械のように順調に進んでいく宇宙という考え方と結びついた哲学的で宗教的な信念に異を唱え、カンディードの物語を通じて風刺したのだ。秘密裏に出版されると、本はすぐさま禁書となり、そして大ベストセラーとなった。物語の中でヴォルテールが主たる標的としたのは、やみくもな楽観主義(ライプニッツ〔1646─1716年。ドイツの哲学者、数学者で予定調和の説を展開〕の哲学の一解釈)で、頑固に最善を信じ、最悪を無視するというもので、それによって結果的に喜ばしくない現実が否定される。次々に明らかになる事件、ある場面で斬殺されたり怪我をしたりした人物が、別の場所で急に現れたりするというありえないプロットの展開はこの楽観主義を映し出す。その結果、マジックリアリズム〔日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法〕のさきがけと解釈されている。
カンディードの冒険を読み進むにつれて、どれほどこの種の楽観主義が世界で起きているどんな恐ろしいことにも人々を動揺させないようにしているのか、無視できなくなってくる。サトウキビ農園でひどく身体が不自由にされた奴隷の苦境に遭遇した時、カンディードはやっとこのことを理解する。砂糖生産のために人間が払う代償は驚くべき新事実で、楽観主義とは「すべてがまったくうまくいっていないのに、すべて良いと信じて疑わないという熱狂」なのだと、初めて彼は認める。カンディードの問題は、自分を守る無条件の楽観主義がなくなると、今度は悪に負けてしまって、自分は一人ではどうすることもできないという憂鬱状態に陥るということだ。このようにすべてを否定する異常な熱狂に代わる唯一の選択肢は悲観主義のように見える。対処するには問題が大きすぎるか、難しすぎるという理由から、世界や自分自身の中の何かを変えようという努力は、意味がないと思ってしまう憂鬱な心の傾向のことだ。
物語結末で、カンディードはマルマラ海の浜辺で船から上陸する。そこはちょうど私の祖父が戦争捕虜となった場所だ。この偶然から私はテッドの第一次世界大戦での経験を連想し、本書の初めに戻ることになるのだが、ヴォルテールの物語を読んでいる人には、まったく別の連想となるだろう。あの時代、最も普通に想像されるのは、トルコといえばエキゾチックな場所であることと、スルタンの壮麗な庭だろう。それから伝統的な「ボスタン」ガーデンだ。これは各地にあった生産性の高い野菜畑のことだ。
コンスタンチノープルの近くの田舎で、カンディードは小さな農園に息子たちや娘たちと一緒に住んでいる一人の「立派な老人」と出会う。老人はカンディードと連れの者たちを自宅に招き入れ、庭の果物を勧めた。続けて、オレンジやパイナップル、ピスタチオと、自家製のシャーベット、スパイスの効いたクリームをごちそうしてくれた。カンディードはこの飾り気のない農園がとても実り豊かであると知って驚いた。彼は友人たちとともに長々とした哲学的議論に時間を費やしたが、みんな退屈し、落ち着かなくなり、不安になった。彼らは庭を耕さなければならないのだとカンディードは気がついた。
ヴォルテールの楽観主義と悲観主義は、別の装いで今日の私たちの生活を支配している。悲観主義は私たちのまわりのいたるところにある。特に、うつ病や不安障害の流行、世界の状況や気候危機、戦争と暴力、また自然や人々からの容赦のない搾取に対する消極的な気分と無力感が広まっていることなどだ。カンディードの世界のように、私たちはまるで極が二つある世界に住んでいるかのようだ。私たちが進んでいる未来について圧倒的な憂鬱に苦しむか、否認の状態にとどまって別の世界へと連れていってくれるスクリーンに見入ったまま、「すべてはうまくいく」と希望的観測をしているかだ。
庭は人生を表す、おそらく最もよくできた比喩だ。だが、それはまた比喩をはるかに超える存在だ。ヴォルテールにとってそうだった。『カンディード』の出版後、晩年の20年間、彼は自分の伝えたかったメッセージを実践し、時間とエネルギーをたくさんつぎこんで土地を耕した。フランス東部のフェルネーで放棄されていた地所を手に入れ、そこで、正式なデザインのフランス式庭園を否定し、生産性のある果物と野菜の庭をつくり出した。ミツバチを飼い、何千本という木を、その多くを手ずから植えた。彼はかつてこのように書いている。「私は一生の間にただ一つ賢明なことをした。土を耕すという仕事だ。畑を耕す者は、ヨーロッパ中の文士気どりたちよりも人類により良い奉仕をする者である」。
ヴォルテールは庭を休養の場とは考えなかった。それは公共の利益になるいたって実用的な手法なのだ。「私たちは自分の庭を耕さなければならない」という言葉の意味は、生きるということは栄養豊かに育てられなければならない、また、私たちが生きている自分の人生とコミュニティと環境のきちんとした方向づけを通して最善がつくせるのだと受け入れることだ。ヴォルテールの物語からの教訓は、理想化された世界の姿を追いかけて、目の前にある問題に目をつぶってはならないというものだ。自分のまわりにあるものを最大限に活用し、何か現実にあるものに真剣に取りかからなければならない。
仮想世界と偽りの事実が溢れるこの時代に、庭は私たちを現実に引き戻してくれる。周知のもの、予想可能なものという類いの現実ではない。庭は常に私たちを驚かす。そこでは別の種類の「知る」という体験をする。感覚的で、身体的、そして自分という存在の、感情的な、精神的な、認知的な側面を刺激するものだ。この意味で、ガーデニングは古代的であると同時に現代的でもある。古代的だという理由は、脳と自然との間の進化学的適合にある。また、採集して食べることと農業の間の生き方として古代的だ。深く刻まれた場所への愛着の必要性を表現している。現代的なところは、庭が本質的に未来に目を向けるもので、庭師は常により良い未来をめざしていることだ。
「耕す」という行為は両方向に働く。内側へも外側へも向かっている。庭を耕すことは人生に対する姿勢になりうる。テクノロジーと消費がますます支配的になってきている世界では、ガーデニングはどのように生命が生み出され、維持されているのか、また、生命とはいかに壊れやすく、束の間のものかという現実を人間に直接教えてくれる。今やこれまで以上に、人間は地球の生き物だと、何よりまず思い出さなければならない時なのだ。
著者スー・スチュアート・スミス氏が自分の庭の話をしているところが、とても好きだ。そこから、ゆっくりと、あるいは高速のままに心の世界へとカーブを切って入っていくのは、なんて美しい文章の運転技術だろう。目の前の庭から目をそらせる暇なく、心の世界の話になるのは、庭にいると無数の通路が心の世界へと通じているからなのだろう。外にあると思っていた世界は、中の世界であり、中の世界の話だと思っていると、いつの間にか外の世界の話につながっている。庭は人間の身体にも心にもある。飛躍のようだけれど、ここを渡っていくために、著者はさまざまな歴史的研究の成果、理論的な根拠づけ、治療のためのガーデンでのインタビューや臨床研究を各章で披露してくれている。私たち自身の中にある庭をどのように耕し、種を蒔き、雑草を抜いて、美しい花が咲いて、たくさんの実りを生む庭にするのか。植物が折れたり萎れたりした時にはどうするか。原著のタイトルはWell-gardenedMind だ。庭に対するように、心を耕し、整える。生老病死にどうつき合っていくか、生き方の書だが、科学の書物だ。
南アフリカの潮だまりに生息し、ガーデニングをするカサガイ(第6章)の話も非常に興味深いと思ったが、脳内の免疫担当細胞のミクログリアが、本物の庭師のように、指のような突起を使って毒素を除去し、炎症を抑え、余分なシナプスや細胞を雑草のように取り除いてきれいに整え、さらに神経細胞やシナプスの成長を助けたりしているとは驚きだ。ミクログリアや脳細胞が出すたんぱく質の脳由来神経栄養因子(BDNF)が、脳神経細胞に対して肥料と同種の効果を発揮しているという(第2章)。
こうした除草作業や剪定、施肥によって、脳は細胞レベルで健康に保たれる。健康は受動的なプロセスではなく、心もまた庭のように手入れをされなければならないというわけだ。
庭のある今の家に引っ越した時、私は世話が大変だから花なんか植えないと言っていた。ところが、最初の秋が深まるころ、一年草の種まきが大好きな妹はそんな姉のところに、自分が蒔いて育てたビオラなどの苗をたくさん送って、植え方の手順まで指南してきた。こうして、鉢やプランターはもちろん、園芸土も何もなかったところから始まったガーデニングだったのだが、師匠は春と秋に一年草の花の苗を届けてくれるようになり、すぐに春のビオラとアリッサム、夏のニチニチソウが私の庭の定番となった。そして今では、来年は何色にしようかと種苗会社のカタログを取り寄せて相談するようになった。
春になって驚きの変化を遂げる植物。それは時間がくれる贈り物だ。私が好きな庭の季節は、秋の終わりのチューリップの球根を植え終わったころだ。ビオラとアリッサムのまだ小さな苗も植えつけてしまえば、あとは賑やかな春を待つだけだ。よほど乾燥しない限り真夏のように朝晩の水やりもいらない。
雑草も勢いを止めている。冬の間にもたくさんの花をつけるパンジーもあるけれど、冬に花はなくてもいいのではないかと思う。花のない季節があって初めて、雑草のスミレがちらほら咲き始めると主役になれる。スイセンやチューリップが地面を押し上げてくるのを見守るのは楽しい。成功間違いなしの春の庭だ。
仮想現実と作り物の現実が溢れる現代にあって、庭は私たちを目の前の現実に引き戻してくれると著者は述べている。両者の間の一番の違いは、本物の現実には死ぬ時が来るということだ。庭の現実は、枯れたり、風で折れたり、根腐れもあれば、虫害もある。けれど、まあ仕方ないや、と流していける現実だ。結局のところ日当たり、水はけを考えないで植物を植えてもうまくいかない。環境を知ることが必要だ。すぐにわかるはずもないから、庭は寛大で人間に学ぶチャンスをくれる。著者の言う通り、次のチャンスがある。翌年の同じ季節にまたやってみればいいのだ。私のガーデニングの師匠は「たくさん失敗をしてください」と初めから冷ややかだったが、このごろ少しはわかってきた。庭の日照のことだけではない。自分のこともだ。時間は直線的に流れて後戻りできないのではない。庭の時間は循環する時間であり、庭は循環する物語を与えてくれると著者は言う。生から死へ、死から生へと繰り返す物語だ。
子どもたちがみんな巣立って、それぞれに次の世代にかかりきりになっている姿を眺めていると、どこかにいつも私を見つめている視線を感じる。視線の主は老いと死だ。仮想現実では見なくてよいものだが、人間の自然には老いと死がついてくる。逃げきることはできない。これをどう乗り越えるのか。
著述家ダイアナ・アットヒルは、年をとることは決して簡単ではないが、年をとってできなくなることを受け入れる術を手に入れていた。できないことがあっても、残りの人生がまったく魅力を失ったりはしないと知っていた。老年になっても手放す必要のない喜びを花や木が彼女に与えたのだという。また、フロイトの最晩年の様子は後続の人間たちに道しるべを残してくれている。もう少し先の未来のことを、庭はゆっくりと私たちに教えてくれるようだ。
著者は言う。ガーデニングには、常に人間よりも大きな力が潜在していると。庭自体が生き物で、植物のケアをする時、そこに相互に影響し合う関係が発生するのだという。人間は自然を変えることはできるが、完全に支配し管理するのは不可能だ。この自然とは、人間の外にある緑の自然ばかりではない。
人間の中にある自然もそうだ。そこをわきまえないと、英国の探検家で植民地主義者のジェームズ・ダグラスの北米大陸ブリティッシュ・コロンビアでの失敗のような悲惨な結果となる(第6章)。
自然とのギブアンドテイクに信頼をおいて、ケアする人はちょっと下がったあたりに位置どりしていれば、自然は驚きの姿を見せてくれる。ニチニチソウがつぼみを開くところが私は好きだ。花びらの一枚一枚が隣の花びらの下に半分をきれいに挟まれたまま、花の先端からそっと開いていく。前の住人が置いていったクレマチスは折れたり裂けたりしたボロボロの古い枝から新芽を伸ばし、驚くほど大きな美しい青い花を咲かせる。クレマチスの開花はちゃんと目撃したことがないが、音でも立てて開くのではないかと楽しい空想をする。散る時もじつに潔く散るが、そのあとの幼児のつむじのような姿も見物だ。
その昔、新幹線ができたころの話。それまで出張先で一泊して翌日帰っていたところが、新幹線ができて、速いね、便利だね、と喜んでいたのも束の間、日帰りして帰社し、そのままもう一仕事できることになり、結局前よりも仕事が増えて忙しくなってしまったという話は有名だ。2020年の春先、感染症の蔓延で働き方がすっかり変わった。私の場合も、ほぼすべての仕事がオンラインになった。通勤時間が不要になり、少しは時間ができたと思いきや、職場で終わっていた仕事は、在宅勤務という「持ち帰り」となり、通勤電車の中での読書と仮眠の貴重な時間が消えた。紙の書類でもらっていた連絡は、勤務時間外にもメールで届くようになり、時間にかかわらず返信する。一方で、新しいツールはそれなりに面白く、仕事の内容はついつい盛りだくさんになってしまう。そのうちに、その昔の話と同じことを考えるはめになった。人は便利な道具で幸せになるのだろうかと。
ファストフードにワンクリックで翌日配達など、早ければ早いほどよいという毎日、大量の新情報を吸収することが求められている今、何が適切なことなのか判断したり、経験したことを消化したり、理解したりする時間が不足している。これは本当だ。私は「第11章 庭の時間」を昨年からの自分の働き方を重ねつつ読んだ。デジタルな世界では、人は今自分がいる場所に完全に存在していないと著者は言う。自分の半分はどこか別の場所にいるといった状態だと。仕事時間と休息時間の区別はしだいに侵食されてきた。睡眠時間は、脳内のミクログリアが疲労回復のための剪定や雑草取りをする時間だという。
この最も基本的な休息と回復のための時間が不足している人が多い。これも私だ。精神分析医、レイチェル・カプランとスティーブン・カプランの注意回復理論によれば、自然に囲まれた環境は課題集中型の思考に休息を与え、精神的なエネルギーを回復させる効果が大きいということだ。確かに、庭で過ごす時間の質が変わった気がする。庭は基本的な生活リズムへと引き戻してくれる場所だという。植物の速度で生きることができる場所だからだ。
秋の終わりには小さな弱々しい苗だったビオラは、春たけなわの四月半ばから五月には見事にこんもりと大きな株となって、無数の花をつける。水も液肥もたっぷりあげるから、あとからあとから花をつけるが、続々と枯れ花も出る。これを丁寧に摘み取るのが、近年は楽しくてならない。株の中のほう、葉と葉の間や花壇の壁との間などもくまなく見て、摘む。仕事の合間に庭へ出ては、太陽の光を浴び、外気を吸い、葉に触れ、ほのかな香りにひたり、枯れ花を摘む。あの楽しい気持ちは「楽しい」としか表現のしようがないのだけれど、ビオラの株とのギブアンドテイクなんだろうと思う。
第一次世界大戦では、砲撃戦と塹壕がヨーロッパの景観を大きく変えたという。かつて翻訳した『宝石──欲望と錯覚の世界史』(築地書館)でも、塹壕戦の様子が取り上げられており、懐中時計ではできなかったタイミングを計っての一斉攻撃のために、女性のための宝飾品であった腕時計が男性用の腕時計として進化していったことを知った。それは連合国対同盟国という政治的図式とは違った、人間の姿が見える歴史だった。その同じ塹壕で、兵士たちが掘り上げられた土に種を蒔いたり、草花を掘ってきて植えたりしたという(第9章)。300万人の兵士のうち100万人が戦死か大怪我をしたというソンムの激戦。その有様が、戦場の現場救護所に庭をつくった司祭ジョン・スタンホープ・ウォーカーの目で語られる。アーガイル・アンド・サザーランドハイランダーズ連隊の若い将校、アレクサンダー・ダグラス・ギレスピーはハエ取り紙を送ってくれるように故郷の両親へ頼むが、その手紙でマドンナリリーが満開の塹壕に突如落ちてくる爆弾の話をまるでついでのように書いている。生と死が隣り合っている極限状況の戦場でガーデニングをするということに、庭をつくって花を植え、世話をする人々の姿に、あまりにもリアルな人間の生への本能のほとばしりを見た思いだ。剥き出しになった土が目に浮かび、胸を打たれた。そこに花を植え、美しい植物から生きる力を受け取る。生命の循環は私たちを助けてくれると著者は言う。冬の最も厳しい時に、春が再来するという信念にしがみついてよいのだと(第7章)。深い感動の中で翻訳を進めた。
2021年8月下旬の今、新型コロナウイルス感染者で、入院ができず自宅療養をしなければならない患者数が、日本全国で12万人に近づいているという。ついこの間まで繰り返されていた「安心安全」というキーワードは鳴り止んだ。たとえ自分や家族が感染していなくても、このような現実に、気分は鬱々とするし、絶えず危険にさらされている状態が精神によいわけがない。ワクチンを2回打って、どこにも出かけないでいる以上に、もう手持ちのカードもない現状で、ふと、庭のことを思う。……なんて、ご都合主義もいいところだろうか。まあいい。妹が来年のビオラの種を決めようと言ってきたので乗ることにした。それと来年のチューリップの球根も買おうと思う。
敵に攻めこまれて、撃たれてばかりではつらいから、こちらからも打って出よう! 最後の最後で力になってくれるものは──ロシア民話『おおきなかぶ』の最後に登場する小さなネズミのような働きをするものは──土の中で春を待っているのではないだろうか。(後略)