| 笹山雄一[著] 2,200円+税 四六判並製 240頁 2014年8月刊行 ISBN978-4-8067-1481-1 脳下垂体から放出されるホルモンを突き止めようと、7年もの月日を費やした2人のライバル研究者。 第二次世界大戦直前、ドイツ海軍のUボートに乗って運ばれ、アメリカの科学雑誌に掲載された日本人研究者の論文。 記憶力がアップする薬ができる日も、近い? 私達の体の不思議、それを解明しようとした人々の奮闘努力は、まだまだあった。『人体探求の歴史』で語り尽くせなかった、脳や皮膚、筋肉などを取り上げ、最新の知見も盛り込まれた1冊。 |
笹山雄一(ささやま・ゆういち)
昭和44年、北海道大学水産学部卒業。富山大学理学部教授、金沢大学理学部教授を経て、金沢大学環日本海域環境研究センター教授を務める。平成24年定年により退職。現在、同センター連携研究員。
専門は「骨硬化ホルモン〈カルシトニン分子〉の生理・進化学」。著書に『人体探求の歴史』(築地書館)がある。
はじめに
第1章 脳
脳という漢字は赤ちゃんの頭を意味する
大和言葉では脳を〈なずき〉と言った
エジプトのミイラと脳
ギリシャ時代のクシャミ
脳重量と知能の関係
脳の構造
筋萎縮性脊索硬化症
リンゴを手に取って食べるには
「ムッシュ・タン」
古代でも頭蓋骨の手術があった
プリオンとヤコブ病
白い筋の正体
イカの神経系の発見
カニと麻酔
神経は混線するか
神経細胞は網状型か独立型か
シナプスとは何か
シナプスの構造
神経末端から出る物質
空腹だと記憶力がアップ
[コラム1]ボツリヌス菌
第2章 アルツハイマー病
茗荷を食べると物忘れをする理由
アルツハイマー病の歴史
アルツハイマー病の原因仮説
シグナリング仮説
第3章 脳の内分泌機能と脳下垂体
視床下部のペプチド抽出競争
脳内にアヘン
脳下垂体と鼻水
後葉ホルモンと学習
オキシトシンと父性
謎の研究者
[コラム2]魚の淡水への適応と人の乳汁の産生との関係
[コラム3]プロラクチンの多様な作用
第4章 甲状腺
甲状とは何か
To be, or not to be.
甲状腺の風土病
全摘手術は必要か
オタマジャクシの変態
酸素と甲状腺因子
変態のいろいろ(アホロートル・ヒラメ・ヤツメウナギ・ナメクジウオ・ホヤ)
ウニの華麗な変態
[コラム4]お尻に眼
第5章 副甲状腺
最初の記述者リチャード・オーエン
最後の内分泌腺発見者
副甲状腺ホルモンとシーラカンス
第6章 鰓後腺
コップの複雑な勘違い
エラと進化
ハーシュの無念
第7章 副腎
腎臓とは無関係
アジソン病
高峰譲吉の波乱万丈人生
高峰、ハーン、漱石
アドレナリンの純化競争
第8章 筋肉
しし食った報い
筋肉の中には何が?
収縮のしくみ
江橋先生とトロポニン
[コラム5]セント─ジェルジとビタミンC
第9章 皮膚
内なるネアンデルタール人
脂肪が気になる
汗腺と乳腺
縄文土器と指紋
ネコのヒゲ
これまでの皮膚感覚
最新の皮膚感覚
皮膚で聞く
皮膚で色を見る
コロンブスと梅毒
カポシ肉腫
ハンセン病
[コラム6]おっぱい
[コラム7]MUSE細胞
第10章 受胎と胎盤
受胎の神秘
中世・近世の受胎の考え方
出生前診断
シーザーは帝王切開で生まれた?
ヒトの発生
男と女のつなぎ目、へそ
胎児を守る物
胎盤は内分泌器官
乳がん遺伝子と老化
[コラム8]華岡青洲
[コラム9]前立腺由来ではなかった生理活性物質
参考文献
おわりに
本書においては、『人体探求の歴史』で取り上げていなかった脳を解説し、それに起因する病気を述べる一方、現在、高齢化社会において問題となっているアルツハイマー病の歴史と原因を追究する。それらに加え、幾つかの内分泌腺、筋肉、皮膚、さらに受胎という現象の理解や、出生前診断にも触れることにする。また胎盤という構造物の巧妙さを記述する。この本においても、前巻同様に〈言葉〉と臓器の機能が解明されるまでの〈歴史〉にこだわっていく。この理由は、ヒトの体の理解が、臓器の命名という言葉から始まり、その後、大きく振れながらも真実の機能に収束していく過程が興味深く、それは人体だけでなく、全ての現象の理解に通じるところがあると感じるからである。一方、競争を余儀なくされた研究者の〈心情〉にも触れることにする。また本巻においても可能な部分は〈進化〉にも言及する。
江戸時代、吉原の三浦屋に〈高尾太夫〉という遊女がいた(1660年前後か)。彼女は仙台藩の伊達綱宗に身請けされるほどの美人であった。『漢書』(漢という国の歴史を書いた書物、紀元80年頃に成立)に「傾城」という言葉が出てくるが、これは城を傾ける(美しさのために国が混乱する)ほどの〈絶世の美女〉という意味であり、実際、綱宗は遊興が過ぎて〈伊達騒動〉を引き起こし、幕府により強制的に隠居させられてしまう。高尾は他に好意を寄せていた人がおり「忘れねばこそ、思い出さず候」という〈逆説的な恋の思い〉の表現方法をとったことで江戸っ子の間で評判になった。ただし、この言い回しは彼女のオリジナルではなく『新古今和歌集』(1216年完成)にある。最高の太夫は、このような知識の箱を幾つも持っていた。彼女は、一説では綱宗に心を許さなかった為に、〈吊るし切り〉にされたという。この話は、どこまでが真実か否かはともかく、歌舞伎・狂言などになったが、ここでストーリーを述べたいのではない。〈忘れる〉というのは誰にでもあることで、人類が誕生してから常にあった。〈病的に忘れる〉脳の病気であるアルツハイマー病は、種々の理由で長生きできなかった初期の人類には、いや、つい百年くらい前までの社会には、まれだったのかもしれない。しかしながら、長生きする老人の増えた現代社会では、ヨーロッパ大陸の統計によると、この病気に、65歳以上の約1割が、85歳以上では半数が罹っている。日本では2012年の統計では、65歳以上の年齢の人は3000万人を超えるが、そのうち550万人が罹っており、20年前の6倍に達するという。1972年に発表された有吉佐和子の『恍惚の人』は、いち早く介護の問題を論じた作品であった。現在、分子レベルでこの病気の解明が進み、いよいよ真実に向かって収束するかに見えるが、実は、発症の原因の理解が間違っている可能性があり、それゆえ巷で言われている〈アミロイド仮説〉とは違った形で収束するかもしれない。一方、最新の研究では、ある条件下においては〈学習し記憶する〉ことが容易であることがわかった。意外な条件である。
脳下垂体は、筆者が学生であった40年ほど昔は、内分泌腺の〈王様〉と言われており、ホルモンにかかわる現象の中心で、脳から神経支配を受けていると考えられていた。この小体は、英語ではpituitarygland であるが、これは〈唾〉を意味するラテン語に由来し、17世紀までは脳が分泌する排泄物を貯めておき、時に応じて鼻に分泌する器官であると信じられてきた。しかし機能の解明が進むのは19世紀以降である。さらに1950〜60年代は、脳下垂体は実は脳からの神経支配ではなく、脳が分泌するホルモンによって調節されていることがわかってきた時代で、そのホルモンの正体を追究する米国の2人の研究者に日本人研究者もからんで、『ノーベル賞の決闘』が行われた時代でもあった。特に人間臭い研究者の物語の一端を述べる。
その脳下垂体の支配下にある内分泌腺の一つである甲状腺は、その名前が戦闘の時の〈盾〉と関係がある腺であり、機能は夜になると首の神経を圧迫して脳へ行く血液量を減少させることによって安らかな眠りを誘うと考えられた時代があった。一方、甲状腺腫という病気では、甲状腺の腫れによって本当に気管を圧迫して呼吸困難を引き起こし、窒息死の可能性すらあった。本来、甲状腺は極めて血流量が多く、腺腫を除くにはまず絶望的な数の血管の結紮をしなければならなかった。しかしながら、スイスの外科医で、現代でも手術の際に用いられるコッヘル鉗子に名を残し、ノーベル医学・生理学賞も受賞しているコッヘル(Emil Kocher:1841〜1917)は、それを乗り越えて全ての病根組織を含めた甲状腺を取り去ることに成功した。それにもかかわらず、手術を受けた者は後で重大な後遺症に悩むことになる。何が悪かったのであろうか? 甲状腺は、脳下垂体の支配を受けない、もう一つ別な機能をもっている。その解明は副甲状腺の機能とからんで研究者の誤解の連続であった。
一方、一部は脳下垂体の支配下にある副腎から高峰譲吉(1854〜1922)が、ホルモンという概念が提出される数年も前に、世界で最も早くホルモンの純化に成功し、副腎髄質の活性因子にアドレナリンと命名した。しかしながら、米国では未だにそれを認めずエピネフリンと呼んでいる。全くの錯誤であるが、それを説明する。
筋肉は、副甲状腺等のホルモンが重要な役割を果たしている組織である。近代外科学の開祖として知られる英国のジョン・ハンター(John Hunter:1728〜1793)は、解剖用の死体を手に入れる必要に駆られて墓泥棒までしたために『ジキル博士とハイド氏』のモデルとなった人物である。ただし、これは最近出版されたウェンディ・ムーアの『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』で取り上げられているキャプションで、英国の伝奇作家スティーヴンスン(Robert Stevenson)のこの小説では、元々のモデルは18世紀のエジンバラの市議会議員(昼)と泥棒(夜)を18年間続けたウイリアム・ブロディ(WilliamBrodie)である。夏目漱石(1867〜1916)はこの作家の小説を好み、大学で教科書[例えば"Island Nights' Entertainments"(1893)]に使ったことでも知られる。ハンターの手記に「1758年9月。我々は、聖ジョージ(聖ジョージ病院附属の墓場の名前:筆者注)の地中から標本向けの偉丈夫を得た」とある。筋肉が発達した男は皮膚を剥ぐだけで筋肉の名称がわかり、学生に明快に説明でき、利用価値が高いのである。オリンピックのアスリート達の筋肉は張りと躍動性に富み均整がとれ
美しく見える。この筋肉の収縮の仕組みについては、ハンガリーの誇る生化学者(後に米国に帰化)で自国特産のパプリカを使ってビタミンCの発見でノーベル医学・生理学賞を受賞したセント‐ジェルジ(Albert Szent-Györgyi:1893〜1986)が今度は農家で飼育したウサギの筋肉を使って始めた研究から真実に迫ることになる。
筋肉を被っている皮膚は、顔の表情に見られるように筋肉と一体である。しかしながら、日本人にとって〈皮膚〉という言い方は、いかにも固い感じがする。通常は〈肌〉であって、〈お手入れ〉の対象であり、女性にとって若さのシンボルかもしれない。文豪、谷崎潤一郎は『刺青』において、〈無垢な娘の肌〉に彫られた背中一面の女郎蜘蛛の刺青が、その女性の表面にある美しさの意識のもう一つ下にある、〈男を肥やしにしてしまう女〉の意識をあらわにしてしまう力を持っていることを物語としている。皮膚の機能は、これまで触覚や痛覚、温度感覚などであった。最新の科学技術を用いて調べた結果は、音に対しても聴覚機能を持つこと、さらに光に対する受容機能までも持ち、その役割を従来の説明とはまったく異なるものへと変えてしまった。皮膚感覚が本当に〈意識〉さえも作り出していることを説明する。一方、皮膚の最も目立つ所にあって古来より男性を魅せてきた、女性の乳房は、脇の下にあって人によっては臭いの原因になる汗腺の一種のアポクリン腺が変化した組織であることは間違いない、と書くと男性も女性も幻滅するであろうか。
そもそもこれらの種々の器官や組織を作り出し、また脳において感情や心を生みだす最初のスタートである受胎とはどういう現象であるか、古代ではまったく理解されず、アリストテレスが珍妙としか言いようがない説を立て、混乱させてしまっている。また胎盤の真の役割が解明されたのは、20世紀初頭であり、胎児はいったいどうやって生きているかは未知の領域であった。胎盤は英語でplacenta であるが、それはギリシャ語のplakoenta に由来し、意味は平たいケーキである。これは形の類似からで、日本では、胎児を守り育ててくれた重要な組織として、古代においては専用の容器に入れられ、埋葬する習慣があった。一方、胎盤はホルモンを分泌して妊娠を継続させる内分泌腺でもあることを説明する。
本編でも、内容は、場合によっては本線から脱線する。筆者の授業を受けた学生は、むしろ脱線を喜んだふうがある。また、小説や物語の片鱗に触れることがあるが、同時に最新の生物学・医学の知見も網羅するのは『人体探求の歴史』と同じである。