序章 心の琴線に触れる
  1 特別なつながり
  2 ノーフォークの田舎で過ごした子ども時代
  3 窓辺にオオカミが
  4 過ち多き青春時代
  5 女王と国家のために
  6 すぐそばで肌を寄せ合って
  7 倫理性の問題
  8 新生活への切符
  9 ばれてしまった
  10 どうにか生計を立てる
  11 荒野の呼び声
  12 持久戦
  13 待った甲斐あり
  14 ちいさな赤ちゃんの足音
  15 危機一髪
  16 ほかにやりかたがあるはず
  17 繁殖のしかけ
  18 板挟みなったに忠誠心
  19 家を見つける
  20 ポーランド
  21 ついに出会う
  22 痛い教訓
  23 オオカミの食べ物は身分で違う
  24 己の身分をわきまえる
  25 基本に帰る
  26 家庭の大事さ
  27 別れ別れ
  28 同時に発生した不思議な体験
  29 ソウルメイト
  30 オオカミという奇跡
  31 限界を突き破る
  32 崩壊
  33 私には夢がある

ロンドンの真北に、グレーターロンドンを取り巻く州の一つであるハートフォードシャーがあるが、私がそこの野生動物センターで手伝っていたときのことだった。ある日、一人の男が車椅子に男の子を乗せてオオカミの柵の外に現れたのだが、その車椅子は座席の前に四角の大きなトレーを付けた、ほとんどビクトリア朝風と思える旧式のものだった。あまりに場違いな様子なので私はすぐに興味を持った。１３か１４歳に見えた子は、重度の身体障害者であることは私には一目でわかったが、男が私に話しかけてきて、はるばる５００マイル（約８００�q）も離れたスコットランドから息子を車に乗せて連れて来たのだと言った。彼は、ここでは一般のお客がオオカミと交流するのを許していると聞いたので、息子をオオカミに会わせたいと思ったのだ。

この男がそこまでして息子にオオカミを見せたいと思っていることに私は驚いた。その子がオオカミと会って何か得るものがあるようには見えなかった。彼は身動き一つせず、無言で虚空を見つめて座っており、私は、この子どもがオオカミの毛さえ撫(な)でることはできないのではないかと思った。いつもは、私はこの交流にかかわる仕事が好きだった。子どもたちは、すでにある種の固定観念を持ってくる。オオカミが近づくと子どもたちは悲鳴をあげて後ろに下がる。それは彼らが読んだ童話や漫画から、オオカミはおばあちゃんを襲って食い、子豚の小屋をけちらかし、かわいい少女の喉を噛(か)みちぎる、悪賢くて凶暴な獣(けだもの)だと信じきっているからだ。私自身まったく同じ恐怖心をもって育ってきた。実際は、オオカミは臆病(おくびょう)で、とても高度な社会的組織をもった知能の高い動物で、血に飢えた動物という印象は正しくないのだが、そのことを発見するまでに私は何年もかかった。私は、子供たちがオオカミに手で触れオオカミの話を私から聞く間に、彼らの偏見と無知が次第に氷解するのを眺めるときほど満足感を味わうときはなかった。

私はこの点に関してはほとんど伝道者的情熱を持っていた。子どもたちがオオカミの被毛を手で触り、目をしっかり見つめれば、彼らは必ずオオカミに対する見方を変え、この世界でオオカミが本来もっていた場所を、いつか将来の世代がまたオオカミに返してあげる気持ちになるのではないかと思った。

その昔、オオカミと人間は共生しており、互いに尊敬し互いの生き方から学んでいた。残念なことだが、そんな時代は過ぎ、私たちはそれだけ貧しくなった。人とオオカミが育てた自然界の本来のバランスが崩れ、人間も含めたいくつかの種が、無制御のまま放置され、本当の意味で病んでしまった。これはちょっと夢物語かもしれないが、私たちが自然界の傷を癒やし、そしてそのバランスを取り戻すことにより、オオカミがもう一度森林の中を自由に歩き回れるようにすれば、人間社会が得るものは多いと私は信じている。オオカミが家族の一員に示す忠誠心や、子どもを教育し鍛えるやり方や、自分自身を守る方法や、彼らが強力な殺傷手段を唯一使うのはどんなときなのか、などから私たちは多くを学べるはずだ。世界はまだその準備はできていないが、私の過去２０年間の仕事がささやかながらその方向への道を切り開いたのではないかと思いたい。

私が子どもをオオカミに接触させるときはいつも、子どもが怖がらないようにすることが一番大事だった。私は両者の反応を注意深く観察しながら、交流中に必要以上に怖がらせないようにしなければならなかった。

ところでさきほどの男の子は口が利けなかった。彼の障害は身体的であると同時に明らかに精神的なもので、この子は自閉症なのではないかと私は疑った。何か危ない問題がおきるかもしれないとすぐわかったから、私は彼の父に、これはとても大事なことだと説明しながら、この子がもうオオカミのそばにいたくないと思ったとき何か意思表示できますかと、できるだけ相手の気持ちを慮(おもんばか)りながら質問した。「できないでしょう」と父親はそっけなく答えた。「今まで言葉を話したことがありませんし、どんなことにも全然反応したことがないのです。生まれてこのかた一度も感情を表したことがありません」

常識的に考えれば、悪いけど回れ右をして、子どもを連れてスコットランドに帰ってくれ、とこの男に言うべきだとわかっていた。しかし、なぜ引き受けたか理由を完全には説明できないが、何となくわかる気持ちもあって、私はやってみましょうと同意した。

柵の中にザーネスティという子オオカミがいたが、この子は生まれて２、３か月の間に私たちがずいぶんと手をかけ面倒をみたので、子どもたちに引き合わせるにはうってつけだった。母親が、生まれた直後の子供の体の上に乗っかり転がったのでその子の下顎(したあご)の骨がつぶれていた。その事故のため、ザーネスティは人間の手で育てられ、人間が近くにいても他のオオカミたちのように神経質にならなかった。私はそいつが可愛くてしかたがなかった。ザーネスティは性格がとても素晴らしかったが、顔はミッキーマウスの漫画にでてくる犬のグーフィみたいだった。

私は、自分でも正気かと疑いながら、柵の中に入り、ザーネスティを抱えて出てきた。そのとき生後３か月ぐらいのこのオオカミはスパニエルほどの大きさで、元気がよくて体をくねらせたりたりもがいたりして、じっとしていなかった。わたしはこいつを手に抱えこんでいるのがせいいっぱいだった。私の腕から飛び出しそうな感じだったので、私はザーネスティを少年が座っている旧式の車椅子のトレーの上におろした。私は子オオカミをしっかりと両手で掴(つか)んでいたが、奇跡的なことが起こった。子オオカミが少年を見た瞬間にそいつはぴたりと動かなくなった。ザーネスティが少年の目を覗(のぞ)き込むと、両者が互いをじっと見つめた。それから、子オオカミは後ろ脚を腹の下にしまって座り込み、前足を前方に伸ばした。私は片手を放してみたが、すぐ他の手も放して大丈夫だとわかった。数瞬間後、子オオカミはまだ少年の目を覗き込みながら、体を前に乗り出し、少年の顔を舐(な)め始めた。わたしはびっくりしてそれを止めさせようかと思った。
というのは、子オオカミは、おとなのオオカミに対して、呑み込んだ餌(えさ)を吐き出してほしいとねだるときは口を咬むので、ザーネスティがその針のように鋭利な歯で少年の口を噛(か)むのではないかと恐れたからだ。しかし、ザーネスティは噛まなかった。そいつはただ、とてもやさしく、舐めただけだった。

その光景は衝撃的だった。少年を見ると、彼の右目から一筋の涙が湧(わ)き出で、それから頬(ほお)を静かに流れ落ちるのが見えた。こんなことは今まで起きたことはないはずだと思い、父親のほうに目を向けた。この大柄で屈強な行動力あるスコットランド男は、目の前に繰り広げられているシーンを目撃しながら、頬から涙を流していた。子オオカミは、あっという間に、この１４年間人間がどんなに苦労してもなしえなかった形で、少年の心を揺さぶったのだ。