まえがき


�T 広がるシカの食害と自然環境問題
　1 驚きのニホンジカ食害
　2 なぜシカは増えたのか
　3 シカの生息環境と森林
　4 全国のシカ問題の動向
　5 新たな自然保護問題


�U 四国山地の自然林とシカ問題
　1 四国山地の特徴と剣山・三嶺のシカの生態
　2 剣山におけるシカ食害問題
　3 深刻な三嶺山域の樹木被害実態
　4 三嶺山域稜線部のササ原の枯死と再生を考える
　5 三本杭周辺のニホンジカによる天然林衰退
　6 どう守る三嶺の自然


�V ヨーロッパと日本のシカ対策
　1 ヨーロッパにおけるシカ類の管理の仕組み
　2 日本のシカ対策
　3 展望、どこまで自然を守れるか？

2007年のさおりが原。


2009年の同林内、スズタケは完全に枯れ樹木被害も深刻。


わずか2〜3年の間に、シカ食害によって、急速にさおりが原は姿を変えてしまった。

　「ちょっと変だぞ日本の自然・ふるさと激変」（NHK二〇一〇年八月）シリーズの中で「奥日光の自然が大ピンチ」が放映された。美しく咲き誇るクリンソウの影で、たくさんの植物種が消え大木が枯れたことによって、本来の多様な植生が失われると共に昆虫も鳥類も減り、特定のものが増えるという偏った生態系になっている。名古屋で開かれたCOP10(生物多様性条約第一〇回締約国会議）の年なのに、日本を代表する貴重な自然が大きく様変わりして生物多様性が失われている。これは、日光に限ったことではなく、東北の豪雪地帯を除く全国各地で、いま起きていることである。「ちょっと変」どころか「大いに変」、「嘆かわしいほど変」まで、置かれた立地環境と被害の段階によってその状況は異なる。

　半世紀近く日本の森林を見てきた筆者にとって、今日起きているニホンジカ（以下、シカと呼ぶ）が原生的自然に深傷を負わすようになることはまったく予想外のできごとであった。どんなに立派な強い森であっても、百年、二百年に一度といった大台風、巨大地震や集中豪雨などによって樹木が倒され、山林が壊れ、災害が起きることはしばしば見受けられる。台風災害史上トップクラスの「洞爺丸台風」（一九五四年）では北海道の原生林約二二〇〇万立方メートル（当時の日本の一年間の木材消費量に匹敵する量）の樹木がなぎ倒された。関東大震災では丹沢の山々が各所で大崩壊を起こし、沢筋を中心とする自然植生が大ダメージを受けた。これらの自然の再生には植林や治山工事といった人の力も必要だったが、同時に自然の復元力も働いて歳月が傷を癒し、元の豊かな自然を取り戻してきている。

　もっとも原生林破壊は人類文明の発展と裏腹に進められ、どんなところでも開発できる技術を手に入れた現代文明下の国や企業は、世界の森林を大規模に破壊し続けてきた。国内においても高度成長期からバブル経済期にかけて、国家行政の主導のもとに大規模に原生林を伐採し、人工林化やリゾート開発を推し進めてきた。その結果、残された原生林はわずかなものとなった。それらの残された自然は、自然保護運動の成果と国際的な環境保護の気運の高まりのもとに大半は何らかの保護林として法的に規制され、人の手による開発からは守られてきていた。そのような、残された貴重な自然が今、シカの被害によって各地でダメージを受けている。

　余りに増えすぎたシカの食害による自然へのダメージは、とくに奥山の山岳地帯で深刻だ。単に、森林生態系や生物多様性の問題だけでなく、大量の土砂流出を招き、森・川・海の循環の原点が壊れるからである。シカ食害問題は、多少早い遅いの差はあるが、豪雪地帯を除く「全国同時多発」（湯本ら、二〇〇五）現象であり、ヨーロッパ、北米などの先進国共通の課題ともなっている。そういう意味では先進国世界の同時多発的問題でもある。

　私たちの関わる四国山地の自然林においては、今世紀早々から被害が起き始めていたが、五、六年前までは社会的関心を呼ぶほどの問題は起きておらず、いわば、シカ食害の後発地帯といってよい状況にあった。四国を代表するのは石鎚山系と剣山系であるが、うち剣山系（三嶺山域の高知県側を含む）の稜線部のササ原と自然林で、いま大規模かつ急激に自然が衰退し、劣化が進行している。そんな中、私たち「三嶺の森をまもるみんなの会」が主催したシンポジウムにおいて被害状況をスライドで説明した際、「本当にシカによるものですか？」という素朴な質問が会場から寄せられた。即「間違いなくシカの食害によるものです」と答えた。私たちの会は結成して四年目だが、頻繁に現場に通い、樹皮食い等の被害の実態を調査し、モニタリングも自分たちの手で実施することによって、当初の「疑い」がほどなく「確信」に変わった。口絵の写真にあるように、ササ原に群れるシカ、樹林内のシカ、痛ましい樹皮食いの痕跡、そしてササと樹木がセットで枯れた状況を目の当たりにし、たくさんの糞を見、むせかえるような獣臭をかいだとき実感として、これはただ事ではないとの思いが募った。

　今、シカショックに見舞われたばかりの三嶺山域で起きていることは「嘆かわしいほど変」なのである。自然は自ら持っている再生力によって、やがて時間の経過とともに復元しようとする力が働き、緑の再生へと向かうこともある。その行き着いた先がNHKで放映されたように「ちょっと変」に変わるかも知れない。現実に日当たりの良い三嶺の稜線部では、早くも不嗜好遷移（シカが食べないか、食べられても強い若干の植物種への偏った遷移）が一部で始まっている。だが、稜線部ササ原に隣接する樹林帯、そして西熊渓谷の原生的森林に覆われた中腹部等では、下層植生は失われたままで嘆かわしいほどの「林床砂漠」状態が続いており、未だ植生回復の展望が見いだせない。以前、大台ヶ原、丹沢、屋久島、知床を訪ね、今年も丹沢と知床を訪ねた。どこもかなりシカ食害はひどいのだが、見かけは剣山・三嶺山系が最も深刻だ。急峻な山岳地形と稜線部のササ原・樹林が激しく被害を受けて傷が癒える間もない段階にあるためかもしれない。

　本書は大きくは三部構成と成っている。第一は総論的に過去百年のシカをめぐる社会的な変化、近年の増加の要因、全国的な動向を述べている。先発被害地として丹沢と知床を中心に紹介しているが、単にシカによる食害現象だけでなく、自然を守ることの内実と保護運動の関わりの有り様を分析の軸としている。

　第二は、あまり知られていない四国山地におけるシカ被害の実態と、貴重な源流の森を守ろうとするNGO・NPO主体の地域ぐるみの運動や連携協働による活動を紹介している。日本百名山の一つ剣山周辺でのお花畑の被害や樹齢数百年のゴヨウマツの被害も深刻だ。さらに痛々しいのは三嶺山域の亜高山帯稜線部の樹木被害である。被害実態を紹介すると共に、なぜシカは特定の樹の皮を食べるのか、という視点から分析している。また、同じ稜線部の広いササ原が枯死して裸地化した中、保護柵内外の違いと、柵外での植生再生の方向性を調査研究し、共存の論理のもと緑の再生のあり方（自然の再生力＋人の力）について分析している。四国山地西南部の三本杭の被害も同様に深刻だ。

　そして、第三は、ヨーロッパの先発国のシカ問題と対策の状況を紹介し、日本の先発地域の対策も参考に共存の論理のもとに、森林生態系と流域の環境保全、景観保全を目的として自然を守るための仕組みのあり方を考えたい。ヨーロッパはヘラジカの位置づけは狩猟獣として大きく、山林所有者も狩猟権によって利益を得る仕組みになっている。肉の流通も盛んで経済の仕組みの中で、捕獲管理が行われている。日本のシカ対策では、「知床とイエローストーン」で議論されたオオカミ再導入論に触れてはいるが、当面人の手で管理していかざるをえない状況が続くことから、管理捕獲をはじめとする対策について最近の動向を述べ、最後に市民参加による協働型仕組みについて「三嶺の森をまもるみんなの会」活動のめざす方向を述べている。今日のシカ問題に対してはみんなの力を結集する協働型の運動、活動が鍵を握ると思うからである。

　なお、本書の執筆者は三嶺の森をまもるみんなの会のメンバー（高知大グループ、自然保護団体等）ないしは関係者がほとんどであるが、ヨーロッパについては、最近ノルウェーに留学しておられた上野真由美さんに執筆をお願いした。

　最後に、本書の出版の目的は、日本に残されている多様性豊かな森林で起きている自然保護問題の内実を一般の方々に理解していただきたいと願うと同時に、四国山地と同じ問題に直面している後発地域の取り組みの参考になれば幸いです。出版の機会を与えていただいた築地書館には感謝の意を表する次第です。