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フランス父親事情

浅野素女[著]

1800円+税 四六判 248頁 2007年3月発行 ISBN978-4-8067-1341-8


父性再評価へ
結婚制度を飛び越え(赤ちゃんの半分は非婚カップルから)、
高い出生率(2.0!)を保つ、
恋愛大国フランスの父親たちの生活と意見。

恋愛も、子育ても、仕事も----すべてを手に入れようと闘ってきた女たち、男たち。その多くが気づき始めている。父性のない社会は生きにくいということに。 結婚制度を振り切り、恋愛も子づくりも思いどおりになると信じた男女がはまった深い罠から、フランス社会はどのように抜け出し、高い出生率を保持しつつ、父親への考察を深めているのか。

赤ちゃんの半数が非婚カップルから生まれる現状から、父性の再評価まで、父親たちへのインタビューを通して浮き彫りにされる、フランスの男たちが抱える、苦悩と歓び。

書評再録 読者の声
【主要目次】


はじめに――フランスの男たちに今起こっていること

1章 パパになった
ジャン――出産に立ち会う/父親手帳――手帳交付という儀式/マルク――父との「失われた時」/父親学級/出産とは、自分の母親を殺すこと/父親が産まれようとする苦しみ

2章 父性をめぐる現代史
父親の不確実性/フランスでDNA鑑定を制限する理由/認知というアクション/事実婚で子を産む/五月革命と「父親殺し」/八〇年代――父親の敗退/めんどりパパの出現/父親の復権/父親の出産休暇

3章 あんなパパ こんなパパ
父を見て父親になる/父を探して/養子を育てる/人工生殖とホモセクシャリティー/複合家族――パパ?それとも……

4章 神と精神分析
はじめに言葉ありき、父ありき/現代的なパパ、ヨセフ/エディプス・コンプレックスを脱して/父系社会と母系社会

5章 父性をめぐる西欧史
ローマ時代からキリスト教の時代へ/愛情深い中世の父親たち/近代――婚姻という砦/ルネッサンスの教育論/革命前夜/革命――幸福と子ども/ナポレオン法典の揺り返し/父親の不在、そして疎外

6章 男ってなんだ?
広告の中の男と女/女が男に求めるもの/メトロセクシャル/異なるものへの畏怖/母の姓、父の姓

7章 「父親学」の現在
母の支配を脱して/時間をつかさどる人/父の胸/親と親を足し算して……/父からすべての人へ

おわりに

【はじめに】


 はじめにーーフランスの男たちに今起こっていること

  いま父親を考えることが急務だと思う。
恋愛も、子育ても、仕事も、----すべてを手に入れようと闘ってきたフランスの女たち、男たち。その多くが気づき始めている。
 父性のない社会は生きにくい、ということに。

  フランスの生活のあちこちに父親の姿がある。朝、小走りで保育園へ子どもを送りに行く父親。公園で子どもと遊ぶ父親。学校の保護者会で発言する父親。週末、大型スーパーでキャディーをいっぱいにして食糧をまとめ買いする父親。ヴァカンス中、子どもを背負って山歩きする父親…。父親の姿が仕事場だけでなく、生活の場に見えるのはいい。なんとも言えぬ安堵感に心が満たされる。

  フランスの父親たちを理想化するつもりは毛頭ない。フランスとて、男女の賃金格差は消えないし、家庭で家事をこなしているのはやはり圧倒的に女性が多い。ただ、女性たちが仕事をするのが当たり前のフランス社会では、決して仕事は男たちだけの聖域ではないし、仕事ばかりにかまけている男性がいるとしたら、さっさと離婚されてしまうのが落ちだろう。
 フランス人が最も価値を置く「家庭」で、どういうパパであるかは、男性にとって死活問題ですらある。もちろん、その前に、父親が父親をやれる社会がなくては話にならない。
  学校などは、親が仕事をしているということを前提にして行事を組む。保護者会や教師との面接が夕方五時前にあることはない。日本とは生活時間がちがうから、一概には比べられないにしても、たとえば息子の通う公立中学校で、親子がいっしょに学校に出向いて成績表を受け取る時間は夕方六時〜八時と指定されている。これなら父親も出番があるというものだ。
  父親と母親が仕事と家庭を曲がりなりにも両立させている背景には、もちろん、家族手当や養育手当など、政府の強力な子育て支援策がある。だがそれ以上に、仕事の仕方や勤務時間が人間的だということが大きく貢献しているだろう。フランスのような週三十五時間労働制はしょせん無理だとしても、日本の父親もせめて一日置きくらいには夕食の時間に帰れるようになるといい。
  夕食の食卓に父親の姿がある。これは何気ないことでいて、実は非常に重要なことだ。毎日積み重なることだから、余計大きな意味を持つ。
  かつて、「お父さんがいるから」と、おかずが一品多くなった、そういう権威としての父親を持ち出す必要はないが、母親がそうして一目置く存在としての父親の「権威」は、やはり子どもの成長に必要なのだと、父親を考察すればするほど痛感せずにはいられない。
  権威というと、力ずくという意味合いがあるから、いつからか私たちはその言葉を嫌うようになった。威厳という言葉も誤解を招きやすい。だが、権威というのは、私たちが社会の一員として守るべき一線を示すものだ。「自由」や「のびのび」ばかりが尊重される社会で、その一線さえ私たちは鬱陶しく思ってないがしろにする傾向にありはしないだろうか。
  しごく当たり前のことだが、社会というのは他人どうしの集まりであるから、一定の線引きがなくてはどうしようもなくなる。家庭も社会もぐずぐずになり、子どもも大人もエゴばかりが肥大してしまう。少子化の中で、親(特に母系)の視線に四六時中注視され、自分と他人の境界がよくわからない子どもが増えている。日本はすでに、そうした社会になっている。フランスもそうした状況が珍しくない。そんな中で、いま「父親とはだれ?」、「父親とは何?」、と問うことは急務だと思う。
  フランスの現代のパパたちはけっこうクールである。仕事も家事も気負わずこなしている。と同時に、ごくふつうの人たちが、自分がどんな父親でありたいかを、しっかり考えて行動しようとしている。社会全体が「父親」に注目し、尊重し、その役割を飽くことなく追究し続けているからだろう。
  何も特別な威厳を身につける必要はない。父たちよ、ただそこにいてくれさえすればいい。子どもの生活の場に、日々、寄り添いさえしてくれればいいのだ。母親とは自ずとちがう父親の醸し出す体臭や態度や言葉が、日常の中、静かに降り積もってゆくだろう。ただ日本は、その「いる」ということからして、まだとても難しい社会なのにちがいない。

  父親を考えることは、母親を考えることでもある。歴史を振り返れば、父親の強権は「力」や「支配力」としてはっきりと認識される。ひるがえって母親のそれはあまり問題にされることがない。しかし、母親の支配力は、目に見えにくいからこそ、時に恐るべき「暴力」にもなる。もちろん、母親の愛情はかけがえがない。だがその愛情が自己愛に偏ることなく十全に開花するためにも、父親という、天秤のバランスを取る存在が不可欠なのである。
  ここで「父親」と言う時、それは血のつながった父親ばかりを指すのではないことを強調しておきたい。はっきり言って、形は問題ではない。本書で見ていただくように、離婚や再婚が多いフランス社会では、父親の役割は細分化され、父親を定義することはそう簡単なことではない。日本もしだいにそうなってゆくことだろう。
  そう、父親の定義は実に難しい。父親のイメージはダイナミックに動きながら、この時代に焦点を結ぼうとしているが、結んだかと思うと、次の瞬間にはまたぶれる。しかし、それでも諦めずに、父親って何? と問い続けたい。なぜなら、繰り返すが、父性のない社会は生きにくいからだ。
-----この部分あとがきへ  
  本書は七章からなる。
  第一章では、 パリの父親たちに、父親になることへの不安と苦悩を語ってもらう。同時に、フランス流「父親学級」や「父親手帳」を紹介したい。
  第二章では、父性という概念が、ここ四〇年くらいの間にフランス社会でどのような変貌を遂げ、法律面に反映されてきたかを見てみたい。
  第三章では、様々な男性に登場してもらい、「父親」への思いを語ってもらう。人の数ほど父親像があるのだから。
  第四章では、父親を考える上で、避けて通れないフランスにおけるふたつの文化背景、宗教と精神分析に触れたい。
  第五章では、父性というものが西欧史の中でどのように位置づけられてきたかを俯瞰したい。少々堅苦しい章だが「父なるもの」を歴史的に理解する一助になると思う。
  第六章では、ゲイ文化の浸透などによる男と女の定義の揺らぎを、広告やファッションの面から考えてみたい。父親である前に、その人はひとりの男であるはずだが、果たしていま、男であるとはどういうことなのか?
  第七章では、フランスの「父親学」の旗手を何人か取り上げて紹介したい。「父親学」と呼ばれる学問の分野があるわけではないが、父親というものへの考察の総体をそう呼ぶとすれば、フランスは「父親学」先進国であるかもしれない。

  父親である人、母親である人、親になろうとしてなれなかった人、そして父親でも母親でもない人たちと、私はこの書を分かち合いたい。親でなくとも、みな誰かの子であることはまちがいない。そこへいつも立ち返ってみる姿勢を忘れずに。そうすることで自ずと、「父親って何?」 という問いが、本来の奥行きを持って立ち現れてくるように思われる。
 フランスの父親たちが、日本の父親たちに比べて、特別進歩的だというわけではないし、どちらがいいとか悪いという話ではないことは、ここではっきりお断りしておきたい。条件がちがうものをただ比べても仕方ない。
 ただ、ちがう文化や国に向き合った時、私たちはそこに投影される自分の影に気づき、はたと振り返り、より客観的な視線を自分の実像に投げかける契機を掴むことができると思う。私がフランスの父親たちを語るのは、ひとえにそのためである。